岡崎山の黒地蔵
足利の昔 (2)

足利の田島町が菅田町と利保町の境に接する所、北郷小学校の東に岡崎山という小高い山があります。ここには光得寺が管理する墓地があり、その入り口にあたる場所に『黒地蔵』と呼ばれるお地蔵様がお祀りされています。(現在は修理・修復の為に山を下りています。)この黒地蔵さまは「荒縄地蔵」、「豆腐喰い地蔵」などとも呼ばれ、昔樺崎八幡宮の境内に祀られて居たと「足利の昔話」に伝えられます。

さてその「足利の昔話」によれば、次のようなお話が伝えられているそうです。

それは昔々の話です。まだ黒地蔵様が樺崎寺の地蔵堂に祀られていた頃の事。ある秋の夜更けに村の豆腐屋の戸を叩く見られぬ坊主姿の若者が在りました。豆腐を求めるその者に豆腐屋の主が「どちらからお出でかな?」と尋ねてみましたが、愛想無く「村の者です」と返すのみで坊主姿のその者は求めた豆腐を持って立ち去りました。その日以来、その坊主姿の者は毎夜豆腐屋を訪れ、一丁の豆腐を求めては闇夜に消えるように立ち去るようになりました。

はじめは売れ残りの豆腐を買いに来てくれるありがたい客と思った豆腐屋の主も、話し掛けても愛想も崩さず無表情で不愛想な客を次第に不気味に感じるようになってゆきました。やがてその客が狐狸妖怪の類では無いかと心配した主が、その客の話を知り合いに相談したところ、娯楽の少ない時代のこと瞬く間に噂が村中に広がり、興味にかられた者がその者の顔を拝みに来るような有様となりました。やがて…

「あの顔、どこかで見た事がある」

「間違えない。俺はあの顔を知っている」

と、言い出すものが現れます。しかしどうにも思い出せないのです。そこで或る晩、いつものように豆腐を買って帰るその者を村の若者が気づかれないように灯りを消して密かに後をつけてみると、その姿が村はずれの地蔵堂の近くで不意に闇に消えてしまったのです。若者たちは急いで手元の灯りに火を入れて辺りを探し回りますが、結局、坊主姿のその者を見つける事が出来ませんでした。諦めた若者達は地蔵堂の前に集まり村に戻ろうとすると、彼らの手にした灯りが地蔵堂の中を微かに照らし出したのでした。

「あっ、あの顔!」

若者たちが手にしていた灯りに照らし出されたお地蔵様の顔は豆腐屋で見た得体の知れない坊主の顔その者だったのです。そしてその口元は今、豆腐を食べたと言わんばかりに濡れているでは無いですか。

大慌てで村へと戻った若者の話を聞いた豆腐屋の主が、改めて坊主姿の者から受け取ったお金を確かめると、それはいつの間にか木の葉に変わっていました。村人たちは相談し、お地蔵様が二度と出歩かぬ様にと荒縄で縛ってしまいました。それ以来お地蔵様が豆腐を買いに来る事は無くなったそうです。

いつとは無しに、黒地蔵さまは安産と夜泣きの効験があると信仰されるようになり、願いが叶ったお礼にお豆腐がお供えされる習慣になったそうです。

足利でもオーロラが見えた?
足利の昔 (1)

足利の歴史を紐解く重要な史料である「鑁阿寺縁起」の内、江戸時代に記されたと見られている「鑁阿寺別縁起」に興味深い記述がありますのでご紹介します。

(原文)観応二年/正平六年(1351年)二月従足利城山火柱長二丈(約6m)計者飛落的山。従的山飛来城山七度。又此年城山井水充満。手直汲之間十二日。始二月二日至十三日。水如常。而後鎌倉滅尊氏興。嗚呼寄哉。傅言。若有国家大變。則此兩山震鳴也

記事の「西暦1351年」という年は足利尊氏が弟・直義と争った「観応の擾乱」の只中にあり、その年の2月に光得寺五輪塔に名が刻まれる高師直を始めとした「高一族」が上杉一族により謀殺されています。まさにその同じ時足利の的山に「長さ二丈(約6m)の火柱の如きが飛落した」と記されています。恐らくそれは『赤気』と呼ばれていた『オーロラ』(極光)で有ったと思われます。事実「日本気象資料・第十三編赤気(極光)」の記録によれば古くは日本書紀に記された推古天皇の時代の観測に始まり、平安時代末から鎌倉時代に掛けては比較的頻繁に観測されていたようです。特に日本の天文史においては鎌倉時代に藤原定家が記した『明月記』建仁四年正月十九日(1204年2月21日)の条が殊に有名です。しかし残念ながらこの「日本気象資料」の中に「鑁阿寺別縁起」に記された日時に一致する記録は確認できませんでした。しかし翌年の観応三年/正平七年(1352年)八月十二日にはおよそ百年振りとなる赤気の観測が記録されており、「鑁阿寺別縁起」の記述はこの観応三年の『赤気』の観測と同じ事象を記したのでは無いかと考えられます。

なお、「鑁阿寺別縁起」の追記には『下野風土記』の記事として同様の話も紹介されています。それは清和天皇の代、貞観十八年(876年)正月の事、同じく的山の方角に「石火の如きもの」を観測した事が記されます。これもまた日本気象資料には日時が一致する記録は見られませんが貞観十七年(875年)に雲気(赤気の一種か?)の観測が記録されており、更に前年の貞観十六年(874年)にも黄赤気の観測が記されていました。「鑁阿寺別縁起」のそれら「赤気」の発生は何かしらの異変の前触れで有るように記している事が印象的です。(「赤気」は必ずしも凶事の予兆とだけ見られてはいませんでした。)

その貞観の時代は天災の時代でした。貞観六年には富士山が歴史的大噴火を引き起こし現在の青木ヶ原樹海を作り出し、貞観十一年には東日本大震災に匹敵する『貞観地震』が発生しています。そうした相次ぐ自然災害を恐れる気持ちが『赤気=オーロラ(極光)』という稀な自然現象を変異の前触れと恐れを抱かせたのかも知れません。

科学の進歩した現代の私達は、『オーロラ』が自然現象である事を科学的に理解できるようになりましたが、一方でオーロラの正体である磁気嵐が電子機器に破壊的な障害を与える事も知っています。おかしな話ですが大昔「赤気」を「災害の予兆」と考えた事は明らかに迷信でしたが、現在「オーロラ」は「災害の元凶」であり災いの象徴でもあるのです。

春のお彼岸

「お彼岸」の期間は春分の日を中日として前後3日間を合わせた7日間です。今年は3月17日が「彼岸の入り」、23日が「彼岸明け」になります。

お彼岸には「彼岸」という場所を指す意味と、先に記した通り期間を示す意味が有ります。現代では季節(時期)としての「彼岸」が一般的で、「お墓参りの時期」と云うように感じる方が多いでしょう。先ずはそうした思いだけでも十分では無いかと思います。

それでも「どうしてだろう」と思われる方が居られるでしょう。小さな子供などは特に疑問を持つかも知れません。そうした時の為に「彼岸は彼の世(あの世)」とだけ覚えておいてください。そして亡くなられたご先祖様を始めとする数多の霊が仏様と暮らす世界が近づく季節が「お彼岸」なのだと教えてあげてください。

開山忌(義兼公の御命日)

光得寺開山で在られます足利義兼公は正治元年3月8日(1199年)に入寂なされました。3月8日は旧暦であり現代の暦では4月5日に相当します。当山においては陰暦の3月8日を開山忌として義兼公のご供養をさせて頂いております。

義兼公は建久六年(1195年)に東大寺で出家し法名義穪(義称)を名乗りました。後に追號され鑁阿上人と呼ばれ、また埋葬された場所に朱塗りの御堂が建てられた事から赤御堂殿とも呼ばれています。

義兼公は永遠の瞑想を求め生入定したと伝わります。義兼公が生入定されたその年(1199年)の初め鎌倉幕府初代将軍・源頼朝公が亡くなられております。生入定には其処に至るまでの準備に何年も要しますから、義兼公は既に生入定の準備を進めていたところで義理の兄でもある頼朝公の訃報に接し生入定の決心をされたのかも知れません。

現在の樺崎八幡社殿床下に義兼公入定の地との碑文がが残されている事から、この地が義兼公入定の地と見られています。

「法話を聴く会」中止のお知らせ

令和2年2月25日に示されました「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」に基づき、3月28日(土)に予定しておりました『臨済宗 妙心寺派 北関東教区 第六部・花園会主催「法話を聴く会」』は、中止とさせていただきます。

参加を予定されていました皆様にはご理解頂きたくお願い申し上げます。なお「法話を聴く会」の今後の予定等に関しましては分かり次第ホームページ等に掲載いたします。

ホームページ始めました

菅田山光得寺について多くの皆様に知っていただきたく今回ホームページを作成しました。また光得寺の建つ足利・北郷地域の歴史が日本史において如何に重要であったかも併せて伝えられたらと思っております。

本編に関するお問合せ等有りましたら以下の問合せフォームよりご連絡下さい。ホームページ作成担当が承らせていただきます。

光得寺縁起編纂委員会