光得寺開山・足利義兼の幼少期

1. 難太平記の記述

義兼は少し前までは生年不詳でしたが、近年、西暦1154年生まれと記されるようになりました。年次の根拠は不明ですが、父・義康の生没年ならびに兄などの存在を考慮すれば、この誕生年は妥当であると言えるでしょう。

ところが「義兼の誕生」に関しては、今川了俊(貞世)が晩年記したとされる『難太平記』中に看過できない事が記されています。以下に読み下しを記します。

● 義兼は長け八尺あまりで、力人に勝れた人であった。ほんとうは為朝の子というが、赤子の時から義康が養った。世にはばかって人に言わなかったので、それを知っている人はいない。

この記事は、大正時代に刊行された鑁阿寺住職編集の「足利庄鑁阿寺」の中でも触れられています。足利義兼を開山と仰ぐ光得寺としては検討の必要があります。

■ 難太平記の錯誤

為朝とは、源頼朝の父・義朝の弟です。西暦1156年の「保元の乱」で義朝に敵対して敗れ、伊豆大島に流されました。この時、幼児で在った義兼を保護したならば西暦1154年の誕生年と辻褄があいます。義兼が西暦1154年に誕生したとする根拠が「難太平記」で在るならば中々自由な発想と言わねばなりません。いずれにしても、記されている身長八尺は、2.42mに相当し、余りに大きく現実的とは言えません。

■ 難太平記の示す「足利家」の認識

難太平記」の記述には大きな示唆が含まれます。作者の了俊は足利一門・今川家の者で在り、九州探題、遠江、駿河半国守護の守護を勤めた一族の重鎮でした。その了俊が「足利宗家は源氏では在るが、初代(義康)の血筋では無い」と断じているのですから、可能性では有るものの、了俊の執筆時、足利家では、義兼を義康の実子と認識して居なかったとなります。これは興味深い事実です。

2. 義兼の誕生地

■ 義兼の母

義兼が為朝の子では無く、義康の第3子で有る場合、母は熱田神宮大宮司藤原範忠の娘であり、範忠の父・季範の養女として義康に嫁がせたと言うのが定説です。当時の慣習では、貴族家系の者は妊娠すると実家に戻り、誕生した子は母方の実家で育てられる事が一般的でしたから、義兼は母の実家で生まれ、ある程度の年まで母の実家で育てられたでしょう。

● 藤原範忠の妹(若しくは姉)は由良御前と呼ばれた女性でした。源義朝の妻であり、そして西暦1147年に頼朝の母となり、更に西暦1152年には、頼朝の弟・希義も産んでいます。義兼の出生時、頼朝は8歳、希義は3歳になっていました。同じ都の母方の実家に遊びに来て、義兼と同じ時間を過ごしたかも知れません。

■ 義兼の庇護者は

義兼は、母方の実家・藤原範忠の屋敷で誕生後、同屋敷で育ち、4歳の時に父・義康と死別したとすると、その後、誰が義兼の庇護者となって育てたのでしょうか。通説では義兼の父・義康死去の後、義康の兄・源義重が後見したとされますが、義重は自らの嫡男に「義兼」を名乗らせています。自らが庇護した近親同族に嫡男と同じ名を名乗らせる事は常識的には考えられません。その行動から、義重が義兼の庇護者で在る可能性は低いと考えます。むしろ義兼は義重の嫡男の名を知らなかったと考えて良いでしょう。

● 義重は仁平三年(1153年)旧暦正月22日の除目により内舎人となった事は確認できますが、其れ以外の活動の記録が見当たりません。また内舎人というものの、当時まだ無位無官であり、義康のような政治面でのコネクションにも乏しく、継続的に在京活動を行う意味は無かったように見られます。更に、義重の母は藤原敦基の娘と伝わり、敦基の家系からは、敦基をはじめ、子の令明、甥の経衡など上野国国司を数多く出しています。後の新田荘立券も、敦基が上野国に築いた私領を基礎としたとの説も在ります。そこから義重は内舎人に任じられながらも、活動拠点は上野国内で在ったと考えられています。

そこで視点を変えると、先ず、平安時代の日本では、男子が家系を継承するも、実権は世俗的上下関係を基として養親が握る事がしばしば在りました。摂関政治や院政はそうした状況から生まれています。権力を振るわないまでも、養い子が出世すれば、養い家は少なからず栄えます。養親は実母である必要は有りません。その視点で考えれば、義兼が大成した後、恩恵を享受した者が、義兼の養親で有る可能性が高いでしょう。

注目したのはやはり義兼の祖父・藤原範忠です。範忠の次男・野田清季の子・朝季が、「和田の乱」で朝比奈義秀の手から義兼の嫡男・義氏を救った話が吾妻鏡に残されています。また清季の弟・寛伝は、足利の樺崎寺に作られた「一切経蔵」に経典を納め、後に義氏が拝領し再建した三河国の「滝山寺」の住職になります。樺崎寺の一切経蔵の開基の名は確認できませんが、野田清季の一族と見る事が妥当でしょう。その後、朝季の子・重弘樺崎寺4代住職となり、父・野田朝季(鷹司禅門)供養の為に多宝塔を創建します。このように義兼が築いた足利と祖父・藤原範忠の家系は、義氏の代までとても濃密な関係に在りました。

● 滝山寺の所在地は三河国額田郡であり、野田清季が所領とした三河国設楽郡に隣接します。しかし清季が「野田」を所領とするのは西暦1175年であり、足利家とは関係有りません。「和田の乱」は義氏が三河国守護となる前に起きており、野田氏との関わりは三河国に由来するものとは考えられません。

3. 義兼と頼朝

■ なぜ義兼は頼朝に厚遇されたのか

頼朝の「義兼厚遇」の第一幕は、治承5年(1181年)旧暦2月1日、義兼28歳の年に頼朝の妻・政子の妹(舅・北条時政の娘、義時の妹)・時子を娶わせ、自らの義弟とした事に始まります。時政は他の御家人(畠山重忠、稲毛重成、平賀朝雅、宇都宮頼綱、坊門忠清、河野通信、大岡時親など)にも娘を嫁がせ頼朝と義兄弟としていましたが、それらの者は義兼と比較にならない軍事動員力や、権威を有する者達でした。たしかに母方の血筋に於いて義兼は頼朝に近い存在でしたが、実情は坂東の片隅の弱小勢力に過ぎませんでした。そんな義兼を頼朝がどのように見ていたかが吾妻鏡の中に垣間見る事が出来ます。

義兼が初めて吾妻鏡に登場する記事は、頼朝が新造された大蔵邸に入る様子を記したものです。その供奉列中に義兼の名が登場します。並びは頼朝の馬の前に和田小太郎。馬の左に加賀美長清、同じく右に毛呂季光、後には北条時政義時親子、そして「足利の冠者義兼」、「山名の冠者義範」と続きます。義兼は千葉一門より前に並び、最末には坂東平氏の名族・畠山重忠の名が記されました。

供奉列の並びに関して補足すると、和田、加賀美、毛呂は頼朝の御親兵、臣下の序列としては北条が先頭であり、その直ぐ後ろに足利、山名が続く事になります。当然、この供奉列の人選ならびに順序は頼朝の意向に沿ったものと見られます。つまり、この並びには初期の頃の頼朝の御家人に対する心情が色濃く現れていると言えるでしょう。北条を下には出来ないものの、その次列に義兼を置くことは、頼朝の強い信頼が見て取れます。そう考えると、義兼と時子の婚姻は、他の時政の娘婿等と異なり、頼朝の強い意思が介在していたのでは無いかと考えられます。

■ なぜ頼朝は義兼にこだわったか

しかし、母方の血筋において頼朝に近いとは言うものの、頼朝はなぜこれ程までに義兼にこだわったのでしょうか。ひとつ可能性を上げるなら、義兼の正体が同母弟の希義だったという可能性です。希義は「平治の乱」の後、義兼の祖父(頼朝の叔父)藤原範忠により捕縛され、土佐に流されたと伝わります。範忠の行動は余りに非情で、意外な行動に見えます。しかしその時、範忠が身代わりを差し出し、希義を義兼と偽り匿い続け、時を得て頼朝に再会させたならば、頼朝の喜びは大きなものだったでしょう(義経、範頼は異腹の兄弟で幼少期面識さえ無かった可能性あり)。難太平記とは多少状況は異なりますが、義兼が義康の子ではないとの説とも矛盾しません。その後、義兼は頼朝の下で勢力を蓄え、重用されてゆきました。平家討伐では範頼と共に従軍し、大河兼任の乱では追討使として兵を率いています。

なお、土佐に流された希義には、その後の歴史も在りますがここでは割愛いたします。