仁木一族 
足利の昔 (6)

1. 足利一門・仁木氏

光得寺過去帳に、足利氏一門として足利尊氏と共に南北朝時代に活躍し、「太平記」ならびに「梅松論」に仁木一族の活躍が確認できます。鎌倉時代の仁木氏は、足利家の被官として三河国の経営に活躍しており、南北朝時代に入ると戦乱の中で尊氏側近として台頭し、南宗継らと共に活躍しました。そして一族の仁木頼仲は、樺崎寺の寺務となり、現在に至る樺崎寺と鑁阿寺の在り方のすべてを築いてゆきます。

2. 光得寺開山・足利義兼との関係

仁木氏の一族は、光得寺開山足利義兼公の父・源性足利氏初代・源(足利)義康を父とする矢田(足利)義清の子、広沢義実から分かれる一族です。義実は義兼の甥に当たります。

義兼は、治承4年(西暦1180年)からの「治承・寿永の乱」において源頼朝麾下で活躍し足利家の発展の基礎を築きます。一方、兄・義清は、頼朝の同族・源(木曽)義仲麾下で戦っており、寿永2年閏10月1日(西暦1183年)水島合戦で敢え無く命を落としてしまいます。

尊卑分脈には義清の子として四人の男子が記され、長男・義範は、義重の娘との間に生まれ(※1)、祖父・義重から上野国(群馬県)多胡郡山名郷を譲られ、山名義範を名乗ったとされます。義範の名は、吾妻鏡・治承4年12月12日の条、「頼朝・清亭入御」の記事の中、北条時政・義時親子に続き、義兼と共に供奉の列に名前が記されています。
※1 山名義範は、義康の兄・源(新田)義重の庶子という説もあります。

仁木氏の祖となるのは、三男・義実です。義実は、上野国山田郡広沢郷(現在の群馬県桐生市広沢町)を所領とし、広沢義実と名乗りました。詳細は不明ですが、治承4年以前の「広沢」は藤姓足利氏一族・園田氏の勢力範囲であったと考えられ、義実が領有するのは、文治元年11月28日(西暦1185年)の「文治の勅許」以降、義兼が足利・梁田の両郡を手中に収めた頃と推測されます。

3. 光得寺開基・足利義氏との関係

義兼が没し、光得寺開基・足利義氏の代には、足利家は三河国を新領とし獲得し、義実の長男・実国仁木郷に居を構え「仁木実国」を名乗り、仁木氏の祖となりました。そして次男・義季は、細川郷に土着し、「細川義季」を名乗ります。南北朝時代、仁木氏と共に尊氏麾下で活躍する細川氏の初代となります。第79代総理大臣・細川護煕は細川家の末裔にあたります。

この時代、他にも多くの足利一門が三河に移り住んでいます。義氏の庶子から三河吉良氏、奥州吉良氏が誕生し、三河吉良氏から更に分かれて今川氏、一色氏なども分出します。以降、三河国は足利家の要地として、南北朝の騒乱期には足利尊氏を支える拠点となりました。

4. 南北朝時代の仁木氏

南北朝時代、「太平記」ならびに「梅松論」に仁木氏一族の活躍が詳しく記されます。「仁木頼章」と「仁木義長」の兄弟は、尊氏の信頼も厚く、一時、兄弟で九ヵ国もの守護を兼任するまでになります。ふたりは、西暦1333年後醍醐討伐から、西暦1358年の尊氏逝去の時まで、常に尊氏の傍らに身を置き、歴史の中心に在りましたが、頼章が西暦1359年に没した後、次第に仁木氏の勢力は振るわなくなります。

頼章・義長の武勲は数限りなく、元弘の変の六波羅攻め中先代の乱にはじまる建武の乱越前金ヶ崎城攻め四条畷の戦いなどで武勲を上げ、足利家を二分した観応の擾乱の最中、高師直亡き後、頼章が執事に任じられ、以後も尊氏派として活動します。

頼章が執事として活躍した時代、南宗継や今川範国が発給した「施行状」も在る事から、執事職は複数の者により行われていましたが、頼章の残した施行状は数多く、また文和三年以降は「将軍御教書」も並行して出すようになっている点から、頼章が執事の筆頭格で在ったと見られています。頼章・義長は太平記など軍記物では武勇の士としてだけ描かれますが、実際は文武両道に秀でた知勇兼備の将で在ったようです。

足利尊氏は日本史上最も欠点の多い英雄だと思われますが、仁木頼章のような人材を得られた事を考えれば、最も幸運な英雄と言えるかもしれません。

5. 樺崎鑁阿両寺別当・仁木頼仲

足利と三河国に誕生した仁木氏との関わりは、暦応4年(1341年)、頼章の叔父・「仁木頼仲」が樺崎寺別当に補任された事にはじまります。

頼仲は、建武3年(1336年)に、「鶴岡八幡宮」の社務職を預けられ(鶴岡社務記録より)、翌、建武4年(1337年)正月に京都の足利尊氏から正式に社務に補任されました。尊氏が建武政権を打倒し、後醍醐が吉野で南朝を打ち立てた時代です。鶴岡八幡宮の社務を尊氏が補任すると云う事は、尊氏が「源氏の長者」で在る事を宣言したと言えます。補足になりますが鶴岡八幡宮は八幡神を祀る神社で在ると同時に密教寺院でも在りました。現代では神仏分離が常識とされますが、それは単なる政治的刷り込みでしか有りません。

建武4年(1337年)、吉野に逃れた後醍醐は、奥州に在陣していた北畠顕家に「尊氏追討」の為、2度めの上洛を命じます。顕家は、同年、12月8日小山城を陥落させ、城主・小山朝氏(朝郷)を捕えます。朝氏は、同族の結城宗広により助命され、以降、小山勢も南朝方として同行したと見られます。勢力を拡大させた顕家軍は、12月24日、鎌倉を陥落させ、斯波家長を討ち取ります。勢いに乗り上洛を目指した顕家でしたが、暦応元年(1338年)5月22日の「石津の戦い」に破れ戦死します。宗広も吉野に落ち延び、朝氏の動向は不明ですが、暦応2年(1339年)9月23日付けで尊氏が足利庄鑁阿寺宛に寄付した「下野国(栃木県)中山村(那須)」に関連する書状に名が確認されることから、北朝(尊氏)側に帰参したと見られます。更に建武5年(1338年)閏7月2日には、新田義貞も討たれ、窮地に陥った南朝では、9月に、北畠親房等を海路、奥州へと発向させます。しかし、あいにくの嵐に遭難し、常陸国に漂着した一行は小田治久の元に身を寄せます。暦応2年(1339年)9月19日、後醍醐は、失意の中、吉野に於いて崩御します。

後醍醐の死は、南北朝の争いに終止符を打つかと思われましたが、戦乱は尚も続き、坂東では、常陸国の小田治久の下に在った北畠親房が、坂東武者に対し、南朝方への帰順を働きかけてゆきます。尊氏は、信頼を寄せていた禅僧・夢窓疎石の勧めに従い、後醍醐の御霊を慰めるため天龍寺の造営に着手します。

下野国内では、小山朝氏の弟・小山氏政が南朝方に傾き、北朝方に在った朝氏との間で暦応3年(1340年)に合戦に至り、下野国南部を勢力圏とする、守護・小山氏の家中は南北両朝に対し旗幟不鮮明な状態を続けます。それは「宗廟の地・足利」を小山氏の守護下に委ねていた足利幕府にとって重大な脅威となります。幕府にとって、権威を示す上で、万が一にも足利に戦火が及び、宗廟を焼かれるような事態は避けなければなりません。

暦応4年(1341年)、幕府は、高師冬を関東に派遣し、南朝勢力の駆逐と事態収束にあたらせます。師冬は親房の糾合した南朝勢力を次第に切り崩し、康永2年(西暦1343年)までに親房を吉野に追い払い混乱を終息させました。また暦応4年(1341年)には、仁木頼仲も鶴岡八幡宮の大僧正に補任され、樺崎・鑁阿両寺の別当を兼ねると共に、「堀内」を安堵されます。「堀内」とは鑁阿寺を指します。この文言の記された原文を確認出来ていませんが、「堀内安堵」とは「堀内の管理を引き続き委ねられた」と解釈出来ますから、これ以前に頼仲は「堀内」を管理下に置いていた可能性があります。ここで興味深い事は、頼仲の樺崎寺別当補任当時、「鑁阿寺」は未だ「堀内」と呼ばれていたと云う事。頼仲の下で鑁阿寺と樺崎寺の一元管理が実現され、宗廟の一体化推進は端緒についたと言えます。

頼仲が樺崎寺別当に補任され仁木氏一族の多くも足利に移り住んだと見られます。当時の樺崎寺々領は「足利荘跡」の領域に相当する「樺崎」「菅田」「利保」と、更に鎌倉時代義氏が寄進した「月谷」「田島」などの隣接地の他、飯塚(太田市?)、高橋(佐野)、木戸(館林)、大曽根なども所領として確認できます。仁木氏一族はこれらの所領内に根付いたと考えて良いでしょう。

頼仲ならびに一族の足利に於ける活動は、推測するしか在りませんが、前述の時代背景から足利家宗廟の安全確保が目的の第一で在ったと考えられます。そこで樺崎寺を足利氏歴代の御霊が眠る「奥の院」と位置付け、藤姓足利氏の居宅時代からの堀を有し、公文所として要塞化されていた「鑁阿寺」を祭祀を司る祈願所としたと考えます。これが古より足利に伝わる、高野山を模した「樺崎寺奥の院、鑁阿寺壇上」構想の実態でしょう。

康永2年(1343年)から貞和5年(1349年)の間は、多少の戦乱は在りながらも比較的安定した時期でした。貞和3年(1347年)付で、足利基氏が足利赤御堂宛に「上野芝塚郷」を寄進した記録が残ります。貞和3年(1347年)は、足利直義に待望の長男・如意丸が誕生した年です。直義の執事・上野国守護・上杉憲顕が、直義庇護下に在った基氏の名で所領を寄進し、直義嫡男誕生に祝意を表すと共に健勝を願ったのでしょう。

しかし、そんな平和も束の間、貞和5年(1349年)閏6月、直義が尊氏側近であった執事・高師直の排斥を求めた事に始まる『観応の擾乱観応元年(1350年)10月26日から正平7年※2(1352年)3月12日)』の結果、足利政権は分裂・弱体化し、瀕死の状態に在った南朝は復活し再び戦乱が日本全土に広がります。(※2 正平一統により北朝暦が廃され、南朝暦となっている。)

「観応の擾乱」の前半、貞和5年(1349年)9月頃、鎌倉府に在った「足利義詮」が京都に戻り、代わりに当時まだ9歳の「足利基氏」が鎌倉府に下向し初代・鎌倉公方となります。鑁阿寺文書に依れば、観応2年(1351年)付で「足利赤御堂」宛に「足利丸木郷」の寄進が記されます。丸木郷は現在の地名で「名草」と呼ばれ、樺崎寺々領北隣に接する地です。「観応の擾乱」の折返し、足利直義派が高(こう)一族を滅ぼした時期にあたります。恐らく高一族からの没収地を上杉憲顕が寄進しと考えられます。

観応3年(1352年)正月5日、前年12月末の「薩埵峠の戦い」に足利尊氏が勝利し鎌倉入を果たします。ここに「観応の擾乱」の幕が下ろされます。鶴岡八幡宮社務記録の正月9日の条には、「別当(仁木)頼仲、将軍・尊氏に出仕す」と記され、正月20日付で「赤御堂」宛に「上野国垣見郷」の寄進も記されます。鶴岡八幡宮社務記録では寄進者は尊氏ですが、鑁阿寺文書の記録では基氏が寄進者となっています。文和3年(1354年)、「樺崎寺別当」宛に尊氏が下した「御教書」が尊氏と樺崎寺の最後の関わりとなり、延文3年(1358年)4月30日に尊氏は逝去しました。

それから5年ほど後、貞治2年(1363年)付で「基氏補任状」が下されます。宛名は「樺崎・鑁阿両寺別当」と変わりました。その後の貞治4年(1365年)2月付で、頼仲が鑁阿寺に制法を下す事から、先の補任状は頼仲を「樺崎・鑁阿両寺別当」に再任した文書と見られます。貞治2年(1363年)は、基氏は宇都宮氏綱を討伐し、尊氏が作り上げた「薩埵山体制」を完全に崩壊させ、足利直義派の復権を果たした年です。基氏は自らの名で頼仲を再任した事で、「足利家宗廟の地・足利」の庇護者で在る事を宣言したと言えます。そして両寺別当となった頼仲が制法を下したことで、樺崎・鑁阿両寺は名実共に一対の「足利氏の宗廟寺院」として成立することになりました。

6. 鑁阿上人伝説

光得寺過去帳には「當寺開山鑁阿上人勅宣赤御堂八幡大菩薩」とあります。簡単に説明すると、「この寺を開いた者(開山)は、鑁阿上人。朝廷からの宣旨により赤御堂八幡大菩薩と号した」となります。「鑁阿上人」が誰であるかは、鑁阿寺に伝わる永享年間作成とされる「鑁阿寺縁起仏事次第(古縁起)」や、江戸中期・亨保年間作成の「足利鑁阿寺縁起(別縁起)」に、出家した足利義兼が「法華坊鑁阿/鑁阿寺殿義穪上人」を名乗った経緯が記されます。

足利義兼が鑁阿上人で在るという説は、真言宗・高野山に残される「高野山文書」中に記された実在の人物・鑁阿上人の記述箇所に、付箋で記された「俗名源義兼、法名鑁阿上人ト云也」との一文が根拠とされます。現在、これが誤りで有ることは先行研究により証明されており、少なくとも「足利義兼」と高野山の僧「鑁阿」は全くの別人です。

「鑁阿上人=足利義兼」説を誰が唱えたか推測するにあたり、鍵となるのが「鑁阿寺」と云う寺号ですが、これも様々な先行研究から、鎌倉時代に称された可能性が低いと結論されています。どうやら、足利義兼が鑁阿上人で在るとの説は、南北朝時代以降広まったと考えられます。

高野山の「鑁阿上人」は、備後国世羅郡に在った田数613町にも及ぶ大荘園・「大田荘」を復興させ、荘務を高野山に付したとされる人物です。高野山は、西暦1333年、建武の新政下で後醍醐から「大田荘」の地頭職を安堵されましたが、続く政変(建武の乱)の結果、改めて足利政権に所領安堵を願う必要性が有りました。高野山の記録文書・「高野山文書」に付箋してまで積極的に書き加えた動機は、そうした背景に在ると見られます。

推測でしか在りませんが、仁木頼仲が大僧正に補任された鶴岡八幡宮は、密教系寺院として真言宗と密接な関係を持ち、高野山を始めとする真言宗派の者が供僧として勤めていた事で深い繋がりを有していました。そこで高野山が、天下を掌握した「足利家」の功績を讃え、足利家の御祖で在る「足利義兼公」に対し、敬意を込め「鑁阿上人」の称号を贈り、樺崎寺の別当を仁木頼仲が兼ねた西暦1341年以降、「堀内」を「鑁阿寺」と改め、「樺崎寺」を奥の院とし、現在の「足利氏宗廟」が作り出されたと考えられます。