光得寺縁起

光得寺創建前の足利(源氏と樺崎)

光得寺は足利尊氏を生み出した足利氏により創建されました。その足利氏には日本史の上で異なる血脈の2氏が存在しており、源氏の血筋にあたる義兼等の一族を「源姓足利氏」または「足利源氏」と呼びます。源氏姓の「足利氏」は、八幡太郎義家の子・源義国が安楽寿院領に足利荘を寄進して領家となり、義国の子・源義康が足利荘(旧足利郡内の一部・現足利市域菅田・樺崎地域)と、梁田郡(旧梁田郡・現足利市域渡良瀬川以南)内の梁田御厨荘等を継承した事にはじまります。

現在の足利市域には源義家やその父・頼義の代により勧請されたと伝わる八幡宮が数多く残され、中でも梁田郡内の「下野国一社八幡宮」は最も名高いと思われますが、光得寺に隣接する樺崎地域にもほぼ同時期に創建された「樺崎八幡宮」が残されています。この社が後に足利氏の霊廟として樺崎寺へと発展して行きました。

足利氏初代・義康の没後、苗字の地である足利荘は三男の足利義兼が継承し本貫地とします。その足利荘はこれまで足利郡全域と捉えられて来ましたが、安楽寿院領の史料を確認すると源義国の寄進した足利荘は耕地面積が僅か200町であり、現在の単位では約200ha(2ヘクタール)/1km × 2kmの程度の広さでしかありません。足利荘全域とするには狭すぎます。ということは…

足利氏の本貫地(樺崎と足利荘)...

光得寺開山・足利義兼の活躍(吾妻鏡と義兼)

足利氏初代・義康が没すると足利氏の足跡は歴史の表舞台から消え、その名が再び刻まれるのは吾妻鏡の治承四年十二月十二日の条でした。大蔵の新邸に入る頼朝に供奉する御家人衆を記す文中に足利義兼の名を確認できます。

12月12日 庚寅

亥の刻前の武衛新造の御亭に御移徙の儀有り。(~略~)時剋に、上総権の介廣常が宅より、新亭に入御す。御水干・御騎馬(石禾栗毛)、和田の小太郎義盛最前に候す。加々美の次郎長清御駕の左方に候す。毛呂の冠者季光同右に在り。北條殿・同四郎主・足利の冠者義兼・山名の冠者義範・千葉の介常胤・同太郎胤正・同六郎大夫胤頼・籐九郎盛長・土肥の次郎實平・岡崎の四郎義實・工藤庄司景光・宇佐見の三郎助茂・土屋の三郎宗遠・佐々木の太郎定綱・同三郎盛綱以下供奉す。畠山の次郎重忠最末に候す。寝殿に入御の後、御共の輩侍所(十八箇間)に参り、二行に対座す。

義兼が同族の山名義範と共に北条親子(時政・義時)に続いて列し、その年明け早々2月に時政の娘・時子を娶る事から頼朝並びに北条氏から厚遇されていた事がわかります。その後の義兼は頼朝旗下で源氏の旗を担う事になりますが…

光得寺開山・足利義兼公の軌跡...

光得寺開基・足利義氏

光得寺を創建された足利氏三代・義氏は、鎌倉政権下において伯母である北条政子、伯父である北条義時を支え鎌倉幕府における北条政権の確立に尽力し、それにより足利氏の地位を盤石ならしめた当主です。義氏は七歳で母・時子と、十歳で父・足利義兼と死別し少年時代は鎌倉において北条氏の庇護下に育ちます。その後の活躍により所領を広げ、幕府の中において重きを置かれるようになります。

義氏16歳(西暦1205年)で「畠山重忠の乱」に出陣し、乱の終息後義氏の異母兄である「義純」が、畠山重忠の後妻を娶り畠山の姓と所領を継ぎます。(畠山重忠の妻は北条政子の妹)

義氏24歳(西暦1213年)和田一族により将軍御所が襲撃され鎌倉内で市街戦が展開された「和田合戦」において朝比奈義秀との危うい場面を野田朝季の献身に救われ、その後も奮戦し幕府側の勝利に貢献します。

義氏26歳(西暦1215年)後の第3代執権・北条泰時の娘を妻とし、28歳(西暦1217年)で武蔵守に補任されます。武蔵守補任は、北条一門並みの待遇でした。

義氏31歳(西暦1220年)父・義兼の菩提を弔うため光得寺を開創し、翌年の承久の乱においては東海道軍の大将の一人として従軍し、乱の終息後三河の国の守護職を得た事が後に足利尊氏の天下取りの大きな力となりました。

義氏45歳(西暦1234年)足利領の公文所に大御堂を建立し現在の鑁阿寺の原型を創り上げます。

義氏の活躍が足利氏の後の発展の礎となり、同時に樺崎寺の伽藍が整えられ、樺崎寺の一院である光得寺も創建されてゆきますが、その過程において義氏には多くの苦労が有りました… 足利義氏と樺崎寺...

鑁阿寺縁起に記される光得寺

光得寺の名を客観的に確かめうる記録としては、江戸時代中期に鑁阿寺支院で記されたと考えられている「鑁阿寺別縁起」に付記された次の一文が最も古い記録です。

菅田村高徳寺。上人往(ニ)来的山(一)休息所也。後東六院。毎月八日。的山出仕休(ニ)息之(一)

「菅田村高徳寺」とは、「菅田村光得寺」の誤記載である事は間違えなく、この「鑁阿寺別縁起」が光得寺の名を確認できる最古の史料となります。その文中に記される「後東六院」は樺崎寺に在ったとされる六房が室町時代初めに院号を有したものであり、この記載から光得寺も樺崎寺々院群を構成する寺のひとつで在った事が確認できます。

しかし逆説的に言えば、廃仏毀釈以前の足利の他の史料に光得寺(もしくは高徳寺との誤記)を確認できません。その為「大日如来坐像の再発見」という大ニュースが報じられなければ光得寺の大切な歴史、つまり先人の思いは歴史の中にかき消されていたと思います。光得寺縁起編纂委員会は「光得寺」の歴史を明らかにするために「鑁阿寺」、「菅東山稲荷神社」、「樺崎寺(樺崎八幡宮)」との関係を整理し、そこから光得寺が義兼晩年の隠居屋敷で有った可能性を見いだそうと試みています。

光得寺縁起編纂委員会

光得寺歴代住職

江戸幕府により寛永年代(1624年~1644年)に段階的に施行された「檀家制度・寺檀制度」や「本末制度」など宗教統制政策により国内の全ての寺の在り方が変わり、今私達が目にする「檀家を有するお寺」「本山(本寺)に属するお寺」という形が生れました。光得寺も寛永年代から遅くとも宗旨人別帳による宗門改が制度化された寛文十一年(1671年)までには檀家を有する寺となっています。 光得寺に残されているこの書付には宗祖として臨済宗妙心寺開山・関山慧玄の名が確認できます。「妙心開山勅諡 本有圓成 佛心 覺照 大定聖應 光徳勝妙 自性天真 放無量光 國師」御名前にある朝廷からの諡(おくりな)「光徳勝妙」の「こうとく」と云う音は寺号に通じ、改宗の際に妙心寺開山様の諡から戴いた可能性も否定できません。そうなると改宗以前の寺号が問題となります。所在が明らかになっていない寶憧院や萬歳寺などで在った可能性もあります。 記された歴代住職の御名前の内に確認できる九世中興霊室慧苗和尚が臨済宗妙心寺派としての初代住職です。しかし残念ながら光得寺が臨済宗に改宗した年は定かでは有りません。慧苗和尚の前代にあたる八世隣渓和尚は宝永二年(1705年)に示寂され、その年に前後し慧苗和尚が住職されたと考えられますが、光得寺ご本尊「阿弥陀如来立像」の光背に「元禄六(1693年)癸酉年極月十五日 菅田山光得禅寺現住比丘祖梁再興焉」の朱書銘が確認されており、意味は「元禄六に禅寺である光得寺住職の比丘祖梁が再興した」となります。そこに「再興」とあるからには中興開山・慧苗和尚の筆と思われ、光得禅寺と記されることから既に臨済宗にも改宗していたと推測できます。しかしその年は住職交代と考えられる年より12年も前になります。現時点では改宗された年を断定する事は出来ていません。ところで朱書銘にある「元禄六年」と云う年は、足利藩の藩主「本庄宗資」が2万石加増され笠間藩主へと栄転・所替えとなる年であり、その事が何かの切っ掛けとなった可能性も考えられるかも知れません。 そして歴代住職の最後に記された十七世赤堂和尚こそが明治元年12月の火災の際に本堂より厨子入り大日如来坐像を運び出し天命を全された方です。赤堂和尚の命懸けの行動により私達は現在も光得寺像と呼ばれる伝運慶作の大日如来坐像を目にする事が出来、またこの行動により光得寺像が明治三年の廃仏毀釈以前から光得寺に在った事を伝えています。

光得寺過去帳

光得寺過去帳・足利家の欄は時代変遷を反映しています。それは3つの区切れ目で4つの時代に分けて観る事が出来ます。

1ノ区切れ目は鎌倉時代「開基光得寺殿正義大禅定門」足利義氏公の名前にはじまりる歴代の名が、足利頼氏(吉祥寺殿)、足利泰氏(智光寺殿)で途切れる所です。本来ならば家時-貞氏-尊氏と続く時代です。これは(鎌倉時代において足利氏が衰退していた時期)に相当します。

2ノ区切れ目が「長壽寺殿仁山妙義大相國公」足利尊氏、南宗継と続いた所です。それは薩タ山体制の終焉を告げる区切れ目です。一部の見解に「尊氏は足利の地と疎遠で在った」と述べられる事がありますがこれは大きな間違えです。足利への来訪の有無は記録に有りませんが、腹心である南宗継を名草に配して樺崎寺の外護者とし、更には樺崎寺別当宛に御教書まで遣わしている事から常にその心の中に「足利の地」が在った事が伺えます。また足利市に在る「善徳寺」は仏満禅師法欣を開山として足利尊氏が開いた寺であり、それらの事から生前の尊氏が足利の経営に積極的であった姿が感じられます。

しかし2ノ区切れ目を境に上杉氏が台頭する事になると状況が変わります。上杉氏は尊氏の母方の一族であり尊氏・直義兄弟が対立した『観応の擾乱』では足利直義の最側近として行動していました。そのため乱の終息後は失脚し政権中枢から遠避けられましたが、尊氏の没後二代将軍・義詮と初代鎌倉公方・基氏の合議により上杉氏は復権を果たし関東管領の職に就きました。以降上杉氏は鎌倉公方四代目・持氏まで幕府御家人で在りながら鎌倉公方にも仕えるという複雑な立ち位置で足利の地を管理する事になります。この時代に足利氏の霊廟・氏寺としての役割が鑁阿寺移される事になります。

3ノ区切れ目までの時代、光得寺過去帳には鎌倉公方の名と足利義満の名が続きます。足利基氏(初代)-足利氏満(二代)-足利義満(第三代・征夷大将軍)-足利満兼です。ここで歴代鎌倉公方の記載が終わります。これが3ノ区切れ目であり(鎌倉府の滅亡)の時に重なります。

以降の記載は追記の様相となります。先ず「前武州太守道常大禅定門」から書き始められますが俗名が記されません。この法名は高師直です。次に鎌倉時代に戻り足利家時、そして鎌倉府最後の公方・足利持氏(四代鎌倉公方)、鎌倉府の再興を願いながらも上杉氏に追われ古河遷座した足利成氏(初代古河公方)と続きます。表現は不適切ですがこの四人は敗者の名前であり、いずれも足利氏が衰退する切っ掛けとなる人物です。足利家時の自死により鎌倉期の足利氏は衰亡の危機に瀕し、高師直の敗亡は尊氏を窮地に陥れ、持氏の自死により鎌倉府は滅び、成氏の人生は戦国時代の幕を開け足利氏の命脈を絶つ引金となります。

光得寺・樺崎寺が足利氏の霊廟・氏寺としての役割から退く切っ掛けとなった上杉氏は上野国(群馬県)を所領とし関東管領職に就き足利においても主導的な立場を確保しています。足利学校の創建(再興と言う場合もある)などはその一例です。光得寺過去帳の第三の区切りにおいて足利満兼の名が最後となるのは、永享の乱において足利持氏が上杉憲実により自害に追い込まれ、以降樺崎寺は有力な外護者を持つことなく衰退の道を歩むことになったからと考えられます。

光得寺縁起編纂委員会