古河公方・足利成氏 
足利の昔 (8)

1. 享徳の乱の勃発

光得寺過去帳に記される足利家中の者の名は、足利成氏の名を最後に途絶えます。永享12年(1440年)結城合戦で兄・安王丸・春王丸が命を落とす中、京都に護送された成氏は、途中、将軍・足利義教の暗殺事件が発生した事で命を拾います。この足利成氏こそ、或る意味一番「足利」に縁の深い足利家の人で在ったと言えるかも知れません。

■ 5代鎌倉公方・足利成氏

文安4年(1447年)3月、鎌倉府再興を願う上杉一門の嘆願により鎌倉府が再興され、成氏が5代鎌倉公方となり、先にも記した通り、憲実の長男・上杉憲忠が関東管領職に就任しました。ところが成氏は、旧持氏派の結城氏、里見氏、小田氏等を重用し、ついに享徳3年(1455年)12月27日には関東管領・上杉憲忠を暗殺し、「享徳の乱」を引き起こします。

関東管領・上杉氏一党と成氏一党の争いとして始められた「享徳の乱」は、享徳4年(1455年)1月21・22日、「分倍河原の戦い」で口火が切られ、ここで上杉軍は大敗を喫し常陸国小栗城に逃げ込みます。初戦の勝利に勢いを得た成氏軍では、武蔵国、上野国の残敵を駆逐しながら古河へと向かいます。また武田信長里見義実が房総三国に向かい、後に上総国に安房国を攻め取ります。4月上杉房顕が関東管領に就任し上野国平井城に入りました。しかし5月には、小栗城が陥落し、敗残兵が足利に逃げ込み「天命・只木山の陣」を構築します。

■ 天命・只木山の陣

「天命・只木山の陣」は、佐野の天命から足利の只木山(足利市東部・フラワーパーク南)に至る陣。東西交通の要衝であり、南に渡良瀬川、東に秋山川、旗川などの流れる天然の要害とも言える水郷地帯でした。古河・小山方面を勢力下に置いた成氏の西進に備えた陣と言えます。

同年6月12日成氏軍は「天命・只木山の陣」に対峙します。ところがその4日後の6月16日、幕府から派遣された今川範忠が鎌倉を陥落させてしまいました。戻る場所を失った成氏は、古河への遷座を決断し、以後、「古河公方」と呼ばれます。しかし、古河は、2代鎌倉公方・足利氏満の代に獲得した鎌倉府直轄御料所の「太田荘」および「下河辺荘」が在り、また公方親衛隊とも言える「関東八屋形」に名を連ねる国人衆も近傍に在りました。この「古河遷座」は、成氏にとって致命傷ではなく、むしろ直轄御料所と味方に囲まれた地に拠点を構え、戦国時代後期に登場する一円領主同等の強力な体制を構築する契機となったのでした。

同年7月成氏は足利から古河に退き、東上野に出陣させていた岩松勢などの軍勢を足利に向かわせ、「天命・只木山の陣」に当たらせます。上杉軍も急ぎ救援を向かわせています。その後、坂東各地では戦闘が繰り広げられ、房総三国は成氏の勢力下となります。そして12月に「天命・只木山の陣」が陥落し、上杉勢は足利を失陥します。此れを期に足利の国人衆は成氏方に寝返ったと見られ、南氏もその内に在りました。

2. 古河公方・成氏と足利

康正元年(1456年)1月、戦場は群馬県東部に移り、成氏軍として赤堀政綱岩松次郎の名が登場し、2月24日から26日には、群馬県東部の深巣、赤堀、大胡、山上で合戦があり、赤堀時綱が討死します。その後岩松持国を中心に成氏軍が南下し、武蔵国北部(深谷周辺)が戦場となります。

■ 五十子陣

康正2年(1457年)に入ると、上杉軍は五十子陣(現在の埼玉県本庄市近郊)を整え、利根川防衛ラインの要として河越城に太田道心(資清)、江戸城に太田資長(道灌)が入城し成氏軍と対峙し戦線は膠着します。

長禄2年(1458年)5月15日岩松持国が、岩松長純とその家臣横瀬国繁の懐柔工作の結果上杉側に寝返り、長禄3年(1459年)10月14日古河に進軍した上杉軍と成氏軍が激突し「太田庄の戦い」(現在の熊谷市周辺)が行われ、またも上杉軍が敗退します。以降、上杉軍からは離反者もあらわれ、上杉軍不利の状況で戦況は推移します。しかし一方の成氏軍も攻めきれず、全体として一進一退の膠着状態が続きました。

寛正2年(1461年)5月14日、成氏軍において中心となって活躍し、後に上杉側へと寝返っていた岩松持国次郎父子が再び成氏側への寝返りを画策し、岩松家純に謀殺されます。

■ 足利勧農城と長尾景人

寛正6年(1465年)7月武藏太田荘、下野足利荘などで合戦が行われました。戦いの詳細は不明ですが、その後上杉家の家宰職を世襲していた長尾氏一族・長尾景人が足利庄の代官職に任じられ足利に着任した事から、梁田郡及び足利南部の国人層は上杉側に降っていたと考えられます。しかしその一方、後の記録からこの時点の南氏は成氏側に残留していたと見られます。

寛正7年(1466年)2月、関東管領・上杉房顕が五十子陣で病没し、上杉顕定が関東管領職に就任し、同年11月には、長尾景人に足利での築城(勧農城)を命じます。この城跡は、現在渡良瀬川中洲となっている岩井山に残りますが、当時の渡良瀬川本流は現在の矢場川流域で在り、当時は渡良瀬川の分流または支流と考えられる小河川が流れているだけでした。この時上杉憲実が再興した足利学校や、足利尊氏開基と伝わる善徳寺なども現在の場所に移転されました。

■ 足利争奪戦

応仁元年(1467年)、都で「応仁の乱」が勃発し、この戦いは文明9年(1477年)までの11年間に渡り都を戦火に巻き込み続けます。

応仁2年(1468年)10月関東では、成氏が足利奪還のため天命に着陣し、上野国に進みますが綱取原合戦で上杉軍に敗れ桐生へと退いた後、11月には足利の小曽根にに陣を移し、12月には古河に戻ります。

文明元年(1469年)には、成氏側であった岩松持国の次男・成兼を上杉方の岩松家純が追放し、8月岩松家純は、新田金山城竣工させ居城としました。

文明3年(1471年)3月、成氏軍が伊豆に遠征すると、その隙きを突き、上杉顕定に率いられた上杉軍が古河に軍を進め、下野児玉塚(栃木市)に布陣するも佐野氏に離反の動きが出たため、五十子に引き上げます。

4月に入ると今度は成氏軍が足利に進軍し、八幡河原(太田市)や佐貫荘岡山原(大泉町)に布陣しますが、これは上杉軍に押し返されます。その後、上杉軍は下野大窪(足利市)に布陣し、岩松軍も足利・鑁阿寺門前二本杉(足利市)に進み、只木山を越えて佐野天命に布陣しました。

4月15日、上杉軍が足利の八椚城を陥し、更に進んで佐野の赤見城および、足利の樺崎城を攻め落とします。佐野の赤見城の城将の名は「南式部大輔」と伝わり、赤見城は落城し、南式部大輔も討ち取られます。南氏が成氏側に在ったことを伺わせます。樺崎城もまた南氏の守備した城で在ったと思われ、赤見、樺崎こそが源義国が立券した『足利荘』の原型です。

■ 古河城陥落と逆襲

5月23日、上杉軍が館林城・舞木城を攻撃し、更に東の佐野赤塚(栃木市)に陣を移動させました。ここで小山持政が成氏軍から離反し、再び上杉軍が下野児玉塚(栃木市)に布陣します。館林城・舞木城も陥落し、小山氏に続き、成氏方に在った小田氏・佐野氏も上杉軍に寝返り、6月24日、古河城は落城し、成氏は千葉孝胤のもとに逃れました。

こうして上杉軍の大攻勢により下野国南部の国人が上杉軍に切り取られ、本城である古河城をも失い、成氏軍が瓦解するかと思われましたが、翌年(1472年)5月には、早くも成氏は巻き返しを始めます。足利の勧農城が攻め込まれ、長尾景人が討ちとられ足利を失陥すると、再び上杉軍の五十子陣での対峙となりました。

長尾景人の後、長男・長尾定景-弟・長尾房清-長尾景長と足利長尾家は続きます。景人の後継者・定景は病弱で、景人の弟・房清の後見を受けたと伝わります。房清は主家である山内上杉家とは距離を置き、後には長尾景春や扇谷上杉氏・定正と協調路線を取り、それは次の大乱の原因ともなりました。定景と後見人・房清の代には、足利は成氏勢力下に在り、両者が足利に在ったとは考えられませんが、享徳の乱の終盤、房清は上杉氏に叛した長尾景春に同心したとされ、長尾景長もその頃、足利を回復したと見て良いでしょう。

■ 享徳の乱のその後

「享徳の乱」はその後膠着状態の末、上杉氏・家宰である長尾景春が(文明8年(1476年)6月)に叛乱し、文明9年(1477年)正月に五十子陣を陥落させました。状況が益々混沌とする中、太田道灌が神憑りな活躍により成氏と景春双方を屈服させ、文明14年(1483年)11月27日、都鄙合体と呼ばれる和議の成立によって「享徳の乱」を終わらせています。

しかし乱のの終息後間もなく、長享元年(1487年)足利勧農城が攻撃され、両(山内・扇谷)上杉氏同士の闘い「長享の乱」の火蓋が切って落とされました。戦いは永正2年(1505年)まで18年に渡り続けられます。こうして発端となった結城合戦から数えれば65年の間、足利は戦乱の中心に在り、次第にその存在価値を失っていったのでした。

■ 終わりに

樺崎寺と光得寺の歴史には殆ど関わりのない足利のお話でしたが、私達が普段認識する以上に足利が時代の中心に在ったことを感じられれば良いと思っております。

光得寺開山・足利義兼の幼少期

1. 難太平記の記述

義兼は少し前までは生年不詳でしたが、近年、西暦1154年生まれと記されるようになりました。年次の根拠は不明ですが、父・義康の生没年ならびに兄などの存在を考慮すれば、この誕生年は妥当であると言えるでしょう。

ところが「義兼の誕生」に関しては、今川了俊(貞世)が晩年記したとされる『難太平記』中に看過できない事が記されています。以下に読み下しを記します。

● 義兼は長け八尺あまりで、力人に勝れた人であった。ほんとうは為朝の子というが、赤子の時から義康が養った。世にはばかって人に言わなかったので、それを知っている人はいない。

この記事は、大正時代に刊行された鑁阿寺住職編集の「足利庄鑁阿寺」の中でも触れられています。足利義兼を開山と仰ぐ光得寺としては検討の必要があります。

■ 難太平記の錯誤

為朝とは、源頼朝の父・義朝の弟です。西暦1156年の「保元の乱」で義朝に敵対して敗れ、伊豆大島に流されました。この時、幼児で在った義兼を保護したならば西暦1154年の誕生年と辻褄があいます。義兼が西暦1154年に誕生したとする根拠が「難太平記」で在るならば中々自由な発想と言わねばなりません。いずれにしても、記されている身長八尺は、2.42mに相当し、余りに大きく現実的とは言えません。

■ 難太平記の示す「足利家」の認識

難太平記」の記述には大きな示唆が含まれます。作者の了俊は足利一門・今川家の者で在り、九州探題、遠江、駿河半国守護の守護を勤めた一族の重鎮でした。その了俊が「足利宗家は源氏では在るが、初代(義康)の血筋では無い」と断じているのですから、可能性では有るものの、了俊の執筆時、足利家では、義兼を義康の実子と認識して居なかったとなります。これは興味深い事実です。

2. 義兼の誕生地

■ 義兼の母

義兼が為朝の子では無く、義康の第3子で有る場合、母は熱田神宮大宮司藤原範忠の娘であり、範忠の父・季範の養女として義康に嫁がせたと言うのが定説です。当時の慣習では、貴族家系の者は妊娠すると実家に戻り、誕生した子は母方の実家で育てられる事が一般的でしたから、義兼は母の実家で生まれ、ある程度の年まで母の実家で育てられたでしょう。

● 藤原範忠の妹(若しくは姉)は由良御前と呼ばれた女性でした。源義朝の妻であり、そして西暦1147年に頼朝の母となり、更に西暦1152年には、頼朝の弟・希義も産んでいます。義兼の出生時、頼朝は8歳、希義は3歳になっていました。同じ都の母方の実家に遊びに来て、義兼と同じ時間を過ごしたかも知れません。

■ 義兼の庇護者は

義兼は、母方の実家・藤原範忠の屋敷で誕生後、同屋敷で育ち、4歳の時に父・義康と死別したとすると、その後、誰が義兼の庇護者となって育てたのでしょうか。通説では義兼の父・義康死去の後、義康の兄・源義重が後見したとされますが、義重は自らの嫡男に「義兼」を名乗らせています。自らが庇護した近親同族に嫡男と同じ名を名乗らせる事は常識的には考えられません。その行動から、義重が義兼の庇護者で在る可能性は低いと考えます。むしろ義兼は義重の嫡男の名を知らなかったと考えて良いでしょう。

● 義重は仁平三年(1153年)旧暦正月22日の除目により内舎人となった事は確認できますが、其れ以外の活動の記録が見当たりません。また内舎人というものの、当時まだ無位無官であり、義康のような政治面でのコネクションにも乏しく、継続的に在京活動を行う意味は無かったように見られます。更に、義重の母は藤原敦基の娘と伝わり、敦基の家系からは、敦基をはじめ、子の令明、甥の経衡など上野国国司を数多く出しています。後の新田荘立券も、敦基が上野国に築いた私領を基礎としたとの説も在ります。そこから義重は内舎人に任じられながらも、活動拠点は上野国内で在ったと考えられています。

そこで視点を変えると、先ず、平安時代の日本では、男子が家系を継承するも、実権は世俗的上下関係を基として養親が握る事がしばしば在りました。摂関政治や院政はそうした状況から生まれています。権力を振るわないまでも、養い子が出世すれば、養い家は少なからず栄えます。養親は実母である必要は有りません。その視点で考えれば、義兼が大成した後、恩恵を享受した者が、義兼の養親で有る可能性が高いでしょう。

注目したのはやはり義兼の祖父・藤原範忠です。範忠の次男・野田清季の子・朝季が、「和田の乱」で朝比奈義秀の手から義兼の嫡男・義氏を救った話が吾妻鏡に残されています。また清季の弟・寛伝は、足利の樺崎寺に作られた「一切経蔵」に経典を納め、後に義氏が拝領し再建した三河国の「滝山寺」の住職になります。樺崎寺の一切経蔵の開基の名は確認できませんが、野田清季の一族と見る事が妥当でしょう。その後、朝季の子・重弘樺崎寺4代住職となり、父・野田朝季(鷹司禅門)供養の為に多宝塔を創建します。このように義兼が築いた足利と祖父・藤原範忠の家系は、義氏の代までとても濃密な関係に在りました。

● 滝山寺の所在地は三河国額田郡であり、野田清季が所領とした三河国設楽郡に隣接します。しかし清季が「野田」を所領とするのは西暦1175年であり、足利家とは関係有りません。「和田の乱」は義氏が三河国守護となる前に起きており、野田氏との関わりは三河国に由来するものとは考えられません。

3. 義兼と頼朝

■ なぜ義兼は頼朝に厚遇されたのか

頼朝の「義兼厚遇」の第一幕は、治承5年(1181年)旧暦2月1日、義兼28歳の年に頼朝の妻・政子の妹(舅・北条時政の娘、義時の妹)・時子を娶わせ、自らの義弟とした事に始まります。時政は他の御家人(畠山重忠、稲毛重成、平賀朝雅、宇都宮頼綱、坊門忠清、河野通信、大岡時親など)にも娘を嫁がせ頼朝と義兄弟としていましたが、それらの者は義兼と比較にならない軍事動員力や、権威を有する者達でした。たしかに母方の血筋に於いて義兼は頼朝に近い存在でしたが、実情は坂東の片隅の弱小勢力に過ぎませんでした。そんな義兼を頼朝がどのように見ていたかが吾妻鏡の中に垣間見る事が出来ます。

義兼が初めて吾妻鏡に登場する記事は、頼朝が新造された大蔵邸に入る様子を記したものです。その供奉列中に義兼の名が登場します。並びは頼朝の馬の前に和田小太郎。馬の左に加賀美長清、同じく右に毛呂季光、後には北条時政義時親子、そして「足利の冠者義兼」、「山名の冠者義範」と続きます。義兼は千葉一門より前に並び、最末には坂東平氏の名族・畠山重忠の名が記されました。

供奉列の並びに関して補足すると、和田、加賀美、毛呂は頼朝の御親兵、臣下の序列としては北条が先頭であり、その直ぐ後ろに足利、山名が続く事になります。当然、この供奉列の人選ならびに順序は頼朝の意向に沿ったものと見られます。つまり、この並びには初期の頃の頼朝の御家人に対する心情が色濃く現れていると言えるでしょう。北条を下には出来ないものの、その次列に義兼を置くことは、頼朝の強い信頼が見て取れます。そう考えると、義兼と時子の婚姻は、他の時政の娘婿等と異なり、頼朝の強い意思が介在していたのでは無いかと考えられます。

■ なぜ頼朝は義兼にこだわったか

しかし、母方の血筋において頼朝に近いとは言うものの、頼朝はなぜこれ程までに義兼にこだわったのでしょうか。ひとつ可能性を上げるなら、義兼の正体が同母弟の希義だったという可能性です。希義は「平治の乱」の後、義兼の祖父(頼朝の叔父)藤原範忠により捕縛され、土佐に流されたと伝わります。範忠の行動は余りに非情で、意外な行動に見えます。しかしその時、範忠が身代わりを差し出し、希義を義兼と偽り匿い続け、時を得て頼朝に再会させたならば、頼朝の喜びは大きなものだったでしょう(義経、範頼は異腹の兄弟で幼少期面識さえ無かった可能性あり)。難太平記とは多少状況は異なりますが、義兼が義康の子ではないとの説とも矛盾しません。その後、義兼は頼朝の下で勢力を蓄え、重用されてゆきました。平家討伐では範頼と共に従軍し、大河兼任の乱では追討使として兵を率いています。

なお、土佐に流された希義には、その後の歴史も在りますがここでは割愛いたします。

鎌倉公方に保護された足利 
足利の昔 (7)

1. 樺崎寺と北郷

光得寺は、過去帳に明治33年(1900年)に開創680年と記され、創建は西暦1220年と見られます。所在地(現在の足利市菅田町)は、源義国の立券した約200町(1.98347平方km。対角線2.8kmを直径とした円の半径1.4km)を「足利荘」推定範囲として、樺崎寺を構成する寺院群のひとつで在ったと考えられています。

樺崎寺は、観応2年(1351年)に「足利丸木郷(名草」を寄進され、現在の足利で「北郷」と呼ばれる地域が樺崎寺の寺領としました。尊氏の執事で在った南宗継は晩年「丸木郷」に居を構え、その地を「名草」と改め寺の外護者となりました。

丸木郷が寄進された時代は、足利家中が尊氏派と直義派に分かれて争った『観応の擾乱1350年~1352年)』の只中にあり、坂東では、鎌倉府の両執事(高師冬上杉憲顕)が争い、直義派の上杉憲顕が上野国に挙兵し、尊氏派の高師冬を甲斐国に追い落とし滅ぼしました。都においてもと高師直が『打出浜の戦い1351年2月)』に敗れて降伏し、後に一族もろとも暗殺された後の時代です。「丸木郷」の寄進は「高一族の所領処分」の一環として行われたと見られます。しかし間もなく形勢は逆転し、尊氏が「薩埵山の戦い1351年12月)」に勝利し直義派の敗北が決しました。高一族である南氏は尊氏と共に闘い、戦後、安房国守護となったのと同時に、失っていた足利の所領の多くも取り戻したのでしょう。

■ 武蔵野合戦と国人

『観応の擾乱』は幕府ならびに足利家を弱体化させ、瀕死の南朝勢力を立ち直らせました。坂東では上野国で新田義貞の子・新田義興・義宗兄弟が蜂起し、武蔵国を戦場として尊氏と争う『武蔵野合戦』(1352年閏2月~3月)』が続けられます。

上野国は、『観応の擾乱』と『武蔵野合戦』において、尊氏・北朝側の上杉憲顕と、南朝側にある新田兄弟という相反する者が「挙兵の地」に選んおり、一見矛盾するように思えます。しかし、この時代、血縁など政治権威と異なる要素で私的に結束した「一揆」と呼ばれる武装集団が「武力供給者」として存在していました。「一揆」を構成した者は、時代により荘園領主や、鎌倉幕府御家人、地頭などの様々な権威を身に纏い下地(墾田)を直接支配してきた半農半武の一族で、南北朝頃からそうした氏族を「国人」とも呼ぶようになります。上野国南部には、藤原秀郷を祖とする国人領主らを中心に「白旗一揆」と呼ばれる集団が存在し、武蔵国西部及び北部にも、桓武平氏の血筋に連なる国人領主等による「武蔵平一揆」が存在しました。総称として「国人一揆」とも呼ばれます。『観応の擾乱』では上杉憲顕に従い、『武蔵野合戦』では新田義興・義宗兄弟に従った一揆は「白旗一揆」で在ったと言われます。

私的組織で有る「一揆」には、既存権威との間に主従関係は存在せず、権威に依存する事のない戦力供給組織である「一揆」は、政治的一貫性を示す必要の無い組織でした。ゆえに『観応の擾乱』では北朝・足利家・上杉憲顕に従い、『武蔵野合戦』では南朝・新田兄弟に従う選択をします。しかし戦乱期においこそ「国人一揆」は重宝されますが、同時にそれは戦乱を長引かせる要因にもなりました。更に国人同士が”力”による「淘汰」を繰り返し、集権的大規模組織に成長する事を阻む事にもなります。戦国時代、坂東が周辺強国の単なる草刈場と化した所以です。

■ 足利の国人

『武蔵野合戦』で尊氏は一時的に鎌倉を失陥しながら、安房国守護・南宗継や、仁木頼章、宇都宮氏綱などの活躍により勝利を収めます。当時の足利にも「桓武平氏」「藤姓足利氏」「源姓足利氏」「高階氏」の血を引く国人層の者が数多く居り、様々な戦いに動員されたと考えられます。

足利の国人としては、桓武平氏の「長氏」が樺崎、藤姓足利氏・佐野一門の「阿曽沼氏」は菅田、源姓足利氏の「仁木氏」、高階氏は「高(こう)氏」は梁田郡内に、「南氏」は丸木郷(名草)に勢力を扶植させていました。

2. 光得寺過去帳の鎌倉公方

現在の光得寺は、江戸時代始めに発布された「諸宗寺院法度」に基づき施行された「本末制度」、ならびに「寺請制度」により、檀家を有する臨濟宗妙心寺派寺院として、元文5年(1740年)正月9日、本山・妙心寺より当地に下られた「九世中興霊室慧苗和尚」が住職として整えました。「光得寺過去帳」には、慧苗和尚が住職する前、八代に渡る住職の名が記されますが、住職された年代は不詳です。慧苗和尚が本山・妙心寺より住職された事を踏まえれば、それ以前の寺は、暫く無住の状態に在ったと見られます。光得寺は先にも述べた通り「樺崎寺を構成する寺院群のひとつ」であり、樺崎寺と開山・開基の名は元より、樺崎寺が足利家歴代として供養した者の名も残されます。これは足利氏の宗廟である樺崎寺が「誰」を足利家一門と認識して居たかを知る上で重要な情報となります。偏に慧苗和尚の功績によるものと言えるでしょう。

■ 光得寺過去帳に見られる足利家一門

光得寺過去帳に足利家歴代の名を認めた箇所が在りますが、其処には一定の偏りが見られます。開基・足利義氏に始まる被供養者の名は次の通り続きます。

足利泰氏-足利家時-足利頼氏-足利尊氏-南宗継-足利基氏足利氏満-足利義満-足利満兼-高師直-足利持氏足利成氏

鎌倉時代の足利家当主の内、尊氏の父・足利貞氏の名を確認出来ませんが、貞氏逝去の年は、後醍醐の叛乱により足利家中も混乱していたと考えられます。現在、光得寺境内に移されて保管されている「樺崎寺供養塔」内には、「足利貞氏の供養塔」と推測される石塔が在る事から、これは手続き的な欠落と見ています。しかしその後の室町将軍としては、足利尊氏の名は確認されるものの他の将軍の名は記されていません。一方同時代に鎌倉公で在った足利氏歴代は漏れなく記されています。また、一族では無いものの南宗継高師直の名も足利家の欄に記されます。そして特筆すべきは上杉氏と争った末に鎌倉から古河に遷座した足利成氏の名までもが残される点です。南宗継が外護者となった年代以降、鎌倉府の足利家を尊重している点から、樺崎寺(光得寺)は、鎌倉府の庇護下に置かれていたと考えられます。そこで樺崎寺(光得寺)を庇護した鎌倉府・鎌倉公方について見てゆきます。

■ 初代鎌倉公方・足利基氏

延文3年(1358年)4月30日、足利尊氏が没すると、鎌倉公方・足利基氏貞治2年(1362年)、関東管領の職に在った畠山国清を罷免し討伐します。更に基氏は尊氏が追放した上杉憲顕を越後守護に再任すると関東管領として鎌倉に召喚しました。憲顕は、越後国から鎌倉に向かう途上、宇都宮氏綱の家臣・芳賀禅可に襲撃されますが、これを撃破します。宇都宮氏綱は、「観応の擾乱」の後、上杉憲顕に代わり上野・越後両国守護に任じられ、芳賀禅可を守護代として両国を治めていました。鎌倉公方・基氏は、芳賀禅可の行為を口実に宇都宮氏綱を討伐(小山義政の仲介で和議が成立)します。こうして畠山国清及び宇都宮氏綱が失脚した事で尊氏の確立した薩埵山体制は解体され、上杉憲顕が正式に上野・越後両国の守護に復帰します。以降、「足利」は鎌倉府の保護の下、関東管領・上杉氏の管轄下となります。基氏は明らかに尊氏の遺命に背いたのでした。

■ 2代鎌倉公方・足利氏満

貞治6年(1367年)4月26日、基氏は若くして他界し、2代鎌倉公方・足利氏満が2代鎌倉公方に就きますが、氏満はまだ幼く、引き続き上杉憲顕が関東管領として支えてゆきます。そこに貞治7年(1368年)1月、「武蔵平一揆の乱」が勃発しました。「武蔵平一揆」とは、先にも述べた通り桓武平氏に属する武蔵の「国人衆」が連帯して形成された私的武装集団です。「武蔵平一揆」は足利尊氏下、高師直に協力し「四條畷の戦い」や、畠山国清による「南朝残党討伐」などに動員されましたが、上杉憲顕は関東管領として積極的に平一揆の勢力削減を進めていました。「武蔵平一揆」に属する国人領主は、上杉憲顕により滅ぼされた畠山国清の与党でもあり、「武蔵平一揆」上杉氏にとって粛清対象だったと言えます。その後6月頃には、幕府を味方に付けた上杉憲顕により乱は鎮圧されますが、憲顕は同調して蠢動し始めた「南朝残党勢力」の掃討に忙殺され、9月19日足利の陣所において病を得て没します。

▼ 上杉憲春の諫死

憲顕以降、関東管領の職は上杉氏の世襲となり、憲顕-能憲|朝房-憲春と続きます。上杉憲春の代、康暦元年(1367年)に「康暦の政変」が勃発し、中央進出を意図する2代鎌倉公方・氏満は上洛を画策します。関東管領の職に在った憲春は、3月8日、腹を切って氏満を諌めました。氏満は憲春の諫死により挙兵を諦め3代将軍・足利義満に謝罪します。

▼ 小山氏の乱と上杉憲方

憲春の跡を継ぎ関東管領となった上杉憲方の代、康暦2年(1380年)小山義政が挙兵し、5月16日宇都宮基綱と戦い、基綱を打ち取ります。「小山氏の乱」です。氏満は兵を率いて討伐に向かいますが、9月足利まで兵を進めた所で、首謀者・小山義政から恭順の意が伝えられ、一旦は兵を下げます。しかし義政が再び叛意を示した事で、氏満は将軍・足利義満から「小山義政追討の御教書」を得た上で永徳元年(1381年)4月、再び足利に兵を進めました。12月8日、義政と嫡子・若犬丸が鷲城を開城し降伏するも、永徳2年(1382年)3月22日三度反旗を翻し、4月13日に自害して果てます。戦後氏満は、小山義政、宇都宮基綱という両下野国守護家の没落により空いた下野国守護の座を木戸法季に委ねます。この時木戸法季は、一時的とは言うものの守護所を「足利」に移しています。

至徳3年(1386年)5月、義政の嫡子・若犬丸が挙兵し、祇園城を占領します。氏満の出陣により7月12日には祇園城が陥落しますが、若犬丸は再び行方不明となりました。木戸法季は下野国守護を更迭され、結城基光が守護となります。鑁阿寺文書に拠れば、足利氏満が同年10月7日足利家宗廟(鑁阿寺+樺崎寺)に対し武蔵国比企郡戸守郷を寄進したと在ります。

▼ 関東八屋形

氏満は、元中4年(1387年)7月19日、若犬丸を匿う小田氏の居城に兵を向かわせ、元中5年(1388年)5月18日に小田氏は降伏するも若犬丸には逃げられます。若犬丸はその後も度々姿を現して氏満を翻弄しますが応永4年(1397年)1月15日に追い詰められて自害し、その遺児達も捕らえられ殺され小山氏嫡流の血筋は途絶えます。氏満は、下野国守護に任じた結城基光の次男・泰朝に小山氏家督を継承させる一方、小山氏の所領で在った太田荘および下河辺荘を直轄の御料所に編入し、結城氏、小山氏を始めとしする下野国、常陸国の氏族八家を「関東八屋形」として鎌倉公方の親衛隊とも呼べる組織を構築します。後日、鎌倉公方・成氏が古河に遷座し「古河公方」を名乗りますが、それを支える事となる一党です。

上杉憲方は明徳3年(1392年)4月22日に管領職を辞し、長子・上杉憲孝に管領職を譲り、応永元年(1394年)10月24日に没しまします。しかし間もなく上杉憲孝も病を得て、同年11月に管領職を辞して後没します。その後、氏満の信任厚い犬懸上杉家の上杉朝宗が管領に就任します。氏満は、応永5年(1398年)11月4日に没しています。

■ 3代鎌倉公方・足利満兼

3代鎌倉公方となった足利満兼は、関東管領・上杉朝宗の補佐を受けますが、応永6年(1399年)10月に勃発した「応永の乱」に際し、大内義弘に呼応して挙兵し上洛を企てますが、上杉朝宗(並びに上杉憲定)の反対に躊躇う内、大内義弘の敗報に接して兵を引ます。鑁阿寺文書には、応永12年(1405年)8月23日に、満兼が足利氏宗廟の諸堂修復を行った記録が残ります。上杉朝宗は、応永12年(1405年)9月、関東管領を辞任し、上杉憲定が後任となります。足利満兼は、応永16年(1409年)7月22日に死去します。

■ 4代鎌倉公方・足利持氏

4代鎌倉公方となった足利持氏は、関東管領・上杉憲定の補佐を受けますが、応永17年(1410年)8月、足利氏満の三男・足利満隆謀反の風説が流れ、その責を問われ憲定が辞任に追い込まれます。応永18年(1411年)、管領職に上杉氏憲(禅秀)が就任しますが、次第に持氏との対立を深め応永22年(1415年)に関東管領を辞任します。持氏は管領職の後任に氏憲と対立していた上杉憲基を就任させました。

この人事に憤慨した氏憲(禅秀)は足利満隆や、持氏の弟・持仲と共謀して叛乱を引き起こします。「上杉禅秀の乱」と呼ばれたこの戦いに常陸国真壁郡小栗の領主・小栗満重も加担します。氏憲(禅秀)は持氏を取り逃がしながらも一時的に鎌倉を制圧しますが、幕命により討伐に下った今川範政等に敗退し、応永24年(1417年)1月10日、一党が鎌倉雪ノ下で自害し事態は収束しました。この乱には氏憲(禅秀)の娘婿で在った新田荘領主・岩松満純も加担し斬首されています。満純の遺児・家純は出家するも後に将軍足利義教に後援され復帰し、岩松家中の混乱の原因となります。乱の結果「足利」は幕府直轄地に改められ、幕府代官が派遣され治める事になります。

応永25年(1418年)、上杉憲基が没し、越後国守護・上杉房方の三男・上杉憲実が鎌倉に向かい、応永26年(1419年)に当時10歳と云う年齢で関東管領に就任したと伝わります。

▼ 上杉憲実

応永29年(1422年)、小栗満重が宇都宮持綱・桃井宣義・佐々木基清らと共謀し「小栗満重の乱」を引き起こします。応永30年(1423年)8月、持氏は小栗城を攻め落とし満重を自刃に追い込み、更に共謀した宇都宮持綱を追討して一族の塩谷教綱に殺害させ、幕府に近い佐竹氏をも討伐しました。そして同年、持氏は足利の幕府代官・神保慶久を追放し足利を押領してしまいます。

応永35年(1428年)1月4代将軍・足利義持が逝去しました。義持は足利義量を5代将軍に任じて引退しますが、義量が急逝したことで将軍職に復帰し後継者を決めずに他界してしまいました。持氏は自ら将軍となるべく兵を率いて上洛を企てますが、上杉憲実に押し止められます。

鑁阿寺文書には、正長元年(1428年)10月7日持氏が名草郷の内3分の1を寄進と記されており、更に、同四年3月17日上州橋本郷寄付と続きますが、正長は2年で改元されており正長4年(1431年)は存在していません。これは自らが将軍になれなかった持氏が幕府による改元を無視し、正長年号を使用し続けた結果でした。永享3年(1431年)、上杉憲実は持氏が幕府の改元を無視した件の謝罪使節を幕府に派遣し、翌永享4年(1432年)に、鎌倉府が横領していた足利などの幕府所領を返還しています。憲実は、一貫して鎌倉府と幕府との調停に努めましたが、持氏との関係は次第に悪化してゆきました。

▼ 永享の乱

永享8年(1436年)、持氏は信濃国の村上頼清を支援する為出兵を企みましたが、上杉憲実の反対により出兵を中止します。しかしその翌年(永享9年(1437年))再び出兵が触れられますが、これは憲実討伐の為と噂され、持氏と憲実の間に緊張が生まれました。そして永享10年(1438年)、再び憲実暗殺の風説が流れると、憲実は身を守るため上野国平井城に出奔する事態となり「永享の乱」が始まります。8月持氏は「憲実討伐」の為一色氏を派し自らも出陣します。憲実は幕府の支援を受け、10月「武蔵分倍河原」において一色軍を破ります。その後、上杉家家宰・長尾忠政に率いられた軍勢に鎌倉軍は撃破され、持氏は出家して永安寺に入りました。憲実は持氏の助命を再三幕府に願い出ましたが受け入れられず、永享11年(1439年)、憲実の攻撃により、永安寺の持氏と義久は自害します。

▼ 憲実と足利学校

上杉憲実は文武両立の名将であり、金沢文庫足利学校の再興に尽力しました。一般に足利学校は小野篁の創設した「国学」を憲実が再興したと説明されますが、それは空虚な仮説です。永享4年(1432年)、憲実が足利学校に鎌倉円覚寺の僧快元能化(校長)に招き、多くの書籍を寄贈し再興した事が足利学校の始まりです。

憲実がこの時寄贈したと思われる書籍に金沢文庫の蔵書印が確認されるものがあり、一部の寄贈書は金沢文庫の蔵書であったと考えられています。また後(1560年)に足利学校の庇護者となった北条氏政もまた、金沢文庫から六経(五経)の宋版書籍を移したとされます。尚、足利市のホームページでは、憲実が漢籍を移し学校を再興した年を永享11年(1439年)とされます。先の永享4年は、憲実が足利を幕府に返還し、幕府代官を足利に迎えた年です。また永享11年は、「永享の乱」の終わり、憲実が持氏を永安寺に追い込んだ年です。憲実は幕府からの「持氏殺害」命令に従わず、繰り返し「助命嘆願」を申し入る余り、幕府に裏切りを疑われ、自らの身辺を整理したと伝わります。憲実は身辺整理として自ら所有する五経疏本・孔子図などの書籍や絵画を足利学校に寄進します。何れの年も足利学校には重要な年であり、何れを創建年と定めるかは困難でしょう。

憲実が再興した足利学校は、当時は現在と異なり、足利市伊勢南町近傍に有り、応仁元年(1467)に山内上杉氏・家宰の家柄に在った長尾景人勧農城築城に際し、現在地(足利市昌平町)に学校を移転させました。足利学校は、北条氏政の庇護下で最盛期を迎え、フランシスコ・ザビエルが世界に紹介した学校はその当時のものです。

永享の乱」の後、憲実は後事を弟・上杉清方に託して出家します。しかし永享12年(1440年)、結城氏朝が持氏の遺児春王丸、安王丸を擁して挙兵し、「結城合戦」が勃発すると幕府は憲実に管領復帰を命じ、憲実は已む無く復帰するも戦後再び隠遁してしまいます。

嘉吉元年(1441年)、「嘉吉の乱」で将軍・足利義教が暗殺されると、幕府はまたしても憲実に関東管領復帰を命じますが、憲実はこれを拒み、次男・房顕を除く子供達までも出家させてしまいます。しかし憲実の意に反し文安4年(1447年)に長男・憲忠が関東管領に就任してしまいます。怒った憲実は憲忠を義絶(絶縁)しますが、後に憲実が案じた通り憲忠は悲劇に見舞われる事になります。

■ 『足利』の終わり

上杉憲実により、鎌倉府は事実上滅びました。この先も足利氏、足利幕府、そして復活する鎌倉府の歴史は続いてゆきますが、事あるごとに樺崎寺に所領を寄進し、一族安寧を願った平和な時代は姿をけします。この先の足利は戦場となり、歴史の悲哀を刻む地となってゆくのです。

仁木一族 
足利の昔 (6)

1. 足利一門・仁木氏

光得寺過去帳に、足利氏一門として足利尊氏と共に南北朝時代に活躍し、「太平記」ならびに「梅松論」に仁木一族の活躍が確認できます。鎌倉時代の仁木氏は、足利家の被官として三河国の経営に活躍しており、南北朝時代に入ると戦乱の中で尊氏側近として台頭し、南宗継らと共に活躍しました。そして一族の仁木頼仲は、樺崎寺の寺務となり、現在に至る樺崎寺と鑁阿寺の在り方のすべてを築いてゆきます。

2. 光得寺開山・足利義兼との関係

仁木氏の一族は、光得寺開山足利義兼公の父・源性足利氏初代・源(足利)義康を父とする矢田(足利)義清の子、広沢義実から分かれる一族です。義実は義兼の甥に当たります。

義兼は、治承4年(西暦1180年)からの「治承・寿永の乱」において源頼朝麾下で活躍し足利家の発展の基礎を築きます。一方、兄・義清は、頼朝の同族・源(木曽)義仲麾下で戦っており、寿永2年閏10月1日(西暦1183年)水島合戦で敢え無く命を落としてしまいます。

尊卑分脈には義清の子として四人の男子が記され、長男・義範は、義重の娘との間に生まれ(※1)、祖父・義重から上野国(群馬県)多胡郡山名郷を譲られ、山名義範を名乗ったとされます。義範の名は、吾妻鏡・治承4年12月12日の条、「頼朝・清亭入御」の記事の中、北条時政・義時親子に続き、義兼と共に供奉の列に名前が記されています。
※1 山名義範は、義康の兄・源(新田)義重の庶子という説もあります。

仁木氏の祖となるのは、三男・義実です。義実は、上野国山田郡広沢郷(現在の群馬県桐生市広沢町)を所領とし、広沢義実と名乗りました。詳細は不明ですが、治承4年以前の「広沢」は藤姓足利氏一族・園田氏の勢力範囲であったと考えられ、義実が領有するのは、文治元年11月28日(西暦1185年)の「文治の勅許」以降、義兼が足利・梁田の両郡を手中に収めた頃と推測されます。

3. 光得寺開基・足利義氏との関係

義兼が没し、光得寺開基・足利義氏の代には、足利家は三河国を新領とし獲得し、義実の長男・実国仁木郷に居を構え「仁木実国」を名乗り、仁木氏の祖となりました。そして次男・義季は、細川郷に土着し、「細川義季」を名乗ります。南北朝時代、仁木氏と共に尊氏麾下で活躍する細川氏の初代となります。第79代総理大臣・細川護煕は細川家の末裔にあたります。

この時代、他にも多くの足利一門が三河に移り住んでいます。義氏の庶子から三河吉良氏、奥州吉良氏が誕生し、三河吉良氏から更に分かれて今川氏、一色氏なども分出します。以降、三河国は足利家の要地として、南北朝の騒乱期には足利尊氏を支える拠点となりました。

4. 南北朝時代の仁木氏

南北朝時代、「太平記」ならびに「梅松論」に仁木氏一族の活躍が詳しく記されます。「仁木頼章」と「仁木義長」の兄弟は、尊氏の信頼も厚く、一時、兄弟で九ヵ国もの守護を兼任するまでになります。ふたりは、西暦1333年後醍醐討伐から、西暦1358年の尊氏逝去の時まで、常に尊氏の傍らに身を置き、歴史の中心に在りましたが、頼章が西暦1359年に没した後、次第に仁木氏の勢力は振るわなくなります。

頼章・義長の武勲は数限りなく、元弘の変の六波羅攻め中先代の乱にはじまる建武の乱越前金ヶ崎城攻め四条畷の戦いなどで武勲を上げ、足利家を二分した観応の擾乱の最中、高師直亡き後、頼章が執事に任じられ、以後も尊氏派として活動します。

頼章が執事として活躍した時代、南宗継や今川範国が発給した「施行状」も在る事から、執事職は複数の者により行われていましたが、頼章の残した施行状は数多く、また文和三年以降は「将軍御教書」も並行して出すようになっている点から、頼章が執事の筆頭格で在ったと見られています。頼章・義長は太平記など軍記物では武勇の士としてだけ描かれますが、実際は文武両道に秀でた知勇兼備の将で在ったようです。

足利尊氏は日本史上最も欠点の多い英雄だと思われますが、仁木頼章のような人材を得られた事を考えれば、最も幸運な英雄と言えるかもしれません。

5. 樺崎鑁阿両寺別当・仁木頼仲

足利と三河国に誕生した仁木氏との関わりは、暦応4年(1341年)、頼章の叔父・「仁木頼仲」が樺崎寺別当に補任された事にはじまります。

頼仲は、建武3年(1336年)に、「鶴岡八幡宮」の社務職を預けられ(鶴岡社務記録より)、翌、建武4年(1337年)正月に京都の足利尊氏から正式に社務に補任されました。尊氏が建武政権を打倒し、後醍醐が吉野で南朝を打ち立てた時代です。鶴岡八幡宮の社務を尊氏が補任すると云う事は、尊氏が「源氏の長者」で在る事を宣言したと言えます。補足になりますが鶴岡八幡宮は八幡神を祀る神社で在ると同時に密教寺院でも在りました。現代では神仏分離が常識とされますが、それは単なる政治的刷り込みでしか有りません。

建武4年(1337年)、吉野に逃れた後醍醐は、奥州に在陣していた北畠顕家に「尊氏追討」の為、2度めの上洛を命じます。顕家は、同年、12月8日小山城を陥落させ、城主・小山朝氏(朝郷)を捕えます。朝氏は、同族の結城宗広により助命され、以降、小山勢も南朝方として同行したと見られます。勢力を拡大させた顕家軍は、12月24日、鎌倉を陥落させ、斯波家長を討ち取ります。勢いに乗り上洛を目指した顕家でしたが、暦応元年(1338年)5月22日の「石津の戦い」に破れ戦死します。宗広も吉野に落ち延び、朝氏の動向は不明ですが、暦応2年(1339年)9月23日付けで尊氏が足利庄鑁阿寺宛に寄付した「下野国(栃木県)中山村(那須)」に関連する書状に名が確認されることから、北朝(尊氏)側に帰参したと見られます。更に建武5年(1338年)閏7月2日には、新田義貞も討たれ、窮地に陥った南朝では、9月に、北畠親房等を海路、奥州へと発向させます。しかし、あいにくの嵐に遭難し、常陸国に漂着した一行は小田治久の元に身を寄せます。暦応2年(1339年)9月19日、後醍醐は、失意の中、吉野に於いて崩御します。

後醍醐の死は、南北朝の争いに終止符を打つかと思われましたが、戦乱は尚も続き、坂東では、常陸国の小田治久の下に在った北畠親房が、坂東武者に対し、南朝方への帰順を働きかけてゆきます。尊氏は、信頼を寄せていた禅僧・夢窓疎石の勧めに従い、後醍醐の御霊を慰めるため天龍寺の造営に着手します。

下野国内では、小山朝氏の弟・小山氏政が南朝方に傾き、北朝方に在った朝氏との間で暦応3年(1340年)に合戦に至り、下野国南部を勢力圏とする、守護・小山氏の家中は南北両朝に対し旗幟不鮮明な状態を続けます。それは「宗廟の地・足利」を小山氏の守護下に委ねていた足利幕府にとって重大な脅威となります。幕府にとって、権威を示す上で、万が一にも足利に戦火が及び、宗廟を焼かれるような事態は避けなければなりません。

暦応4年(1341年)、幕府は、高師冬を関東に派遣し、南朝勢力の駆逐と事態収束にあたらせます。師冬は親房の糾合した南朝勢力を次第に切り崩し、康永2年(西暦1343年)までに親房を吉野に追い払い混乱を終息させました。また暦応4年(1341年)には、仁木頼仲も鶴岡八幡宮の大僧正に補任され、樺崎・鑁阿両寺の別当を兼ねると共に、「堀内」を安堵されます。「堀内」とは鑁阿寺を指します。この文言の記された原文を確認出来ていませんが、「堀内安堵」とは「堀内の管理を引き続き委ねられた」と解釈出来ますから、これ以前に頼仲は「堀内」を管理下に置いていた可能性があります。ここで興味深い事は、頼仲の樺崎寺別当補任当時、「鑁阿寺」は未だ「堀内」と呼ばれていたと云う事。頼仲の下で鑁阿寺と樺崎寺の一元管理が実現され、宗廟の一体化推進は端緒についたと言えます。

頼仲が樺崎寺別当に補任され仁木氏一族の多くも足利に移り住んだと見られます。当時の樺崎寺々領は「足利荘跡」の領域に相当する「樺崎」「菅田」「利保」と、更に鎌倉時代義氏が寄進した「月谷」「田島」などの隣接地の他、飯塚(太田市?)、高橋(佐野)、木戸(館林)、大曽根なども所領として確認できます。仁木氏一族はこれらの所領内に根付いたと考えて良いでしょう。

頼仲ならびに一族の足利に於ける活動は、推測するしか在りませんが、前述の時代背景から足利家宗廟の安全確保が目的の第一で在ったと考えられます。そこで樺崎寺を足利氏歴代の御霊が眠る「奥の院」と位置付け、藤姓足利氏の居宅時代からの堀を有し、公文所として要塞化されていた「鑁阿寺」を祭祀を司る祈願所としたと考えます。これが古より足利に伝わる、高野山を模した「樺崎寺奥の院、鑁阿寺壇上」構想の実態でしょう。

康永2年(1343年)から貞和5年(1349年)の間は、多少の戦乱は在りながらも比較的安定した時期でした。貞和3年(1347年)付で、足利基氏が足利赤御堂宛に「上野芝塚郷」を寄進した記録が残ります。貞和3年(1347年)は、足利直義に待望の長男・如意丸が誕生した年です。直義の執事・上野国守護・上杉憲顕が、直義庇護下に在った基氏の名で所領を寄進し、直義嫡男誕生に祝意を表すと共に健勝を願ったのでしょう。

しかし、そんな平和も束の間、貞和5年(1349年)閏6月、直義が尊氏側近であった執事・高師直の排斥を求めた事に始まる『観応の擾乱観応元年(1350年)10月26日から正平7年※2(1352年)3月12日)』の結果、足利政権は分裂・弱体化し、瀕死の状態に在った南朝は復活し再び戦乱が日本全土に広がります。(※2 正平一統により北朝暦が廃され、南朝暦となっている。)

「観応の擾乱」の前半、貞和5年(1349年)9月頃、鎌倉府に在った「足利義詮」が京都に戻り、代わりに当時まだ9歳の「足利基氏」が鎌倉府に下向し初代・鎌倉公方となります。鑁阿寺文書に依れば、観応2年(1351年)付で「足利赤御堂」宛に「足利丸木郷」の寄進が記されます。丸木郷は現在の地名で「名草」と呼ばれ、樺崎寺々領北隣に接する地です。「観応の擾乱」の折返し、足利直義派が高(こう)一族を滅ぼした時期にあたります。恐らく高一族からの没収地を上杉憲顕が寄進しと考えられます。

観応3年(1352年)正月5日、前年12月末の「薩埵峠の戦い」に足利尊氏が勝利し鎌倉入を果たします。ここに「観応の擾乱」の幕が下ろされます。鶴岡八幡宮社務記録の正月9日の条には、「別当(仁木)頼仲、将軍・尊氏に出仕す」と記され、正月20日付で「赤御堂」宛に「上野国垣見郷」の寄進も記されます。鶴岡八幡宮社務記録では寄進者は尊氏ですが、鑁阿寺文書の記録では基氏が寄進者となっています。文和3年(1354年)、「樺崎寺別当」宛に尊氏が下した「御教書」が尊氏と樺崎寺の最後の関わりとなり、延文3年(1358年)4月30日に尊氏は逝去しました。

それから5年ほど後、貞治2年(1363年)付で「基氏補任状」が下されます。宛名は「樺崎・鑁阿両寺別当」と変わりました。その後の貞治4年(1365年)2月付で、頼仲が鑁阿寺に制法を下す事から、先の補任状は頼仲を「樺崎・鑁阿両寺別当」に再任した文書と見られます。貞治2年(1363年)は、基氏は宇都宮氏綱を討伐し、尊氏が作り上げた「薩埵山体制」を完全に崩壊させ、足利直義派の復権を果たした年です。基氏は自らの名で頼仲を再任した事で、「足利家宗廟の地・足利」の庇護者で在る事を宣言したと言えます。そして両寺別当となった頼仲が制法を下したことで、樺崎・鑁阿両寺は名実共に一対の「足利氏の宗廟寺院」として成立することになりました。

6. 鑁阿上人伝説

光得寺過去帳には「當寺開山鑁阿上人勅宣赤御堂八幡大菩薩」とあります。簡単に説明すると、「この寺を開いた者(開山)は、鑁阿上人。朝廷からの宣旨により赤御堂八幡大菩薩と号した」となります。「鑁阿上人」が誰であるかは、鑁阿寺に伝わる永享年間作成とされる「鑁阿寺縁起仏事次第(古縁起)」や、江戸中期・亨保年間作成の「足利鑁阿寺縁起(別縁起)」に、出家した足利義兼が「法華坊鑁阿/鑁阿寺殿義穪上人」を名乗った経緯が記されます。

足利義兼が鑁阿上人で在るという説は、真言宗・高野山に残される「高野山文書」中に記された実在の人物・鑁阿上人の記述箇所に、付箋で記された「俗名源義兼、法名鑁阿上人ト云也」との一文が根拠とされます。現在、これが誤りで有ることは先行研究により証明されており、少なくとも「足利義兼」と高野山の僧「鑁阿」は全くの別人です。

「鑁阿上人=足利義兼」説を誰が唱えたか推測するにあたり、鍵となるのが「鑁阿寺」と云う寺号ですが、これも様々な先行研究から、鎌倉時代に称された可能性が低いと結論されています。どうやら、足利義兼が鑁阿上人で在るとの説は、南北朝時代以降広まったと考えられます。

高野山の「鑁阿上人」は、備後国世羅郡に在った田数613町にも及ぶ大荘園・「大田荘」を復興させ、荘務を高野山に付したとされる人物です。高野山は、西暦1333年、建武の新政下で後醍醐から「大田荘」の地頭職を安堵されましたが、続く政変(建武の乱)の結果、改めて足利政権に所領安堵を願う必要性が有りました。高野山の記録文書・「高野山文書」に付箋してまで積極的に書き加えた動機は、そうした背景に在ると見られます。

推測でしか在りませんが、仁木頼仲が大僧正に補任された鶴岡八幡宮は、密教系寺院として真言宗と密接な関係を持ち、高野山を始めとする真言宗派の者が供僧として勤めていた事で深い繋がりを有していました。そこで高野山が、天下を掌握した「足利家」の功績を讃え、足利家の御祖で在る「足利義兼公」に対し、敬意を込め「鑁阿上人」の称号を贈り、樺崎寺の別当を仁木頼仲が兼ねた西暦1341年以降、「堀内」を「鑁阿寺」と改め、「樺崎寺」を奥の院とし、現在の「足利氏宗廟」が作り出されたと考えられます。

地蔵堂落慶法要

光得寺にお祀りされておりますお地蔵様の地蔵堂が新たに建立され、2月28日(日)午後1時30分、地蔵堂落慶法要を行いました。

お寺にお越しの際はどうぞお参りしてください。

令和2年秋の彼岸会

例年、彼岸の中日(秋分の日・本年は9月22日)に行われております光得寺『秋の彼岸会』は、本年は『新型コロナウイルス感染症予防策』の一環として9月19日に日を改めたうえ、関係寺院のご住職2名の協力の下、光得寺住職宮入玄英により営まれた事をご報告申し上げます。

法会に際し例年ならば光得寺護持会役員の皆様と共に、この一年の間に新たに仏様となられた方のご遺族の方々に参列いただき、『施餓鬼供養』と共に『新亡供養』を執り行わせて頂いておりましたが、本年は先にも述べた通り『感染症予防策』の一環として、新亡ご遺族の参列をご遠慮いただき、また護持会役員様の参列も代表者四名とさせていただきました。そのうえで新型コロナウイルス感染症蔓延という世情を踏まえ、疫病退散、健康長寿の念をより強く胸にご祈祷させていただきました。

今回、ご供養後の御塔婆の受け渡し等におきましても、お参りされる檀家様には例年と異なるご配慮を頂くこととなり、ご負担をお掛けした点も在ったかと思われますが、皆様のご協力により大きな混乱もなく無事一連のご供養を執り行えた事を感謝いたします。

当日の儀式の様子

阿曽沼 (浅沼) 一族 
足利の昔 (5)

1. 吾妻鏡に足利義兼と共に記される「阿曽沼四郎廣綱」

寿永三年(1184年)八月八日、源範頼と共に 足利義兼公が平家追討に出陣した事が吾妻鏡に記されます。頼朝の弟である範頼を先頭(大将)として、北条小四郎(後の執権北条義時)に続く位置に足利蔵人義兼の名が確認され、義兼が北条義時と共に副将格にあった事が伺えます。その位置は頼朝の旗揚げに大功のあった千葉常胤(5番目)や、頼朝の父・義朝の代からの家人である三浦義澄(7番目・足利樺崎の長義季の兄)などの重臣よりも上に並んでいました。そしてこの御家人の列の16番目に名が記される人物こそが本稿の主人公『阿曽沼四郎廣綱』です。その名は下野国の有力氏族小山氏の一門・結城朝光(13番目)、武蔵国の有力氏族・比企能員(15番目)に続く位置にあり、三浦氏の一門にあり、侍所別当の任にあった和田義盛(17番目)の前に記されるほど有力な武将でした。阿曽沼一族は後に名を改め浅沼と称する一族となり光得寺を支えた一族のひとつとなります。

2. 阿曽沼(浅沼)氏の祖

阿曽沼氏は天慶三年の平将門の乱を平定した藤原秀郷を源流とする一族です。後に佐野の阿曽沼の地に居を構え「阿曽沼」を名乗ります。現在も佐野市浅沼町294に『阿曽沼城跡』の碑が建てられ、近くに鐙塚阿曽沼館跡なる名称も残されます。その位置関係から佐野市駅南東部一帯から三毳山に至る地域が所領で在ったと考えられます。ここは唐沢山城の門前、後の時代に有名になる「犬伏の宿」の南に広がる地域であり、街道の重要拠点でもありました。

佐野において藤原秀郷の一族と聞くと、古より佐野に盤踞したと思われるかも知れませんが、阿曽沼氏は平安時代末期に足利を拠点として発展した『藤姓足利氏』一族が佐野に再進出し、頼朝公旗下で活躍して得た所領です。阿曽沼氏初代は先に吾妻鏡での登場を紹介した「四郎廣綱(広綱)」です。

阿曽沼廣綱(広綱)は、同じく佐野を拠点とした佐野基綱の弟。父は足利有綱。藤姓足利氏四代目当主・足利俊綱の弟でした。年代は不祥ですが有綱が東大寺の僧「覚仁」の後を継ぎ東大寺領・戸矢子郷(栃木市北部山間地)の保司となり蓬莱山に不摩城を築いたと伝わります。戸矢子郷は東大寺文書によると長寛二年(1164年)に東大寺領となっていることから、その年代に藤姓足利氏が現在の佐野市、栃木市北部の山間地に進出してきたと推測されます。また治承二年(1178年)には、藤姓足利氏四代目当主・足利俊綱もまた現在の佐野市・赤見地域に城を築いています。足利の樺崎から越床峠を越えた先、飛駒川が拓いた扇状平地の中央に築城された「赤見城」は、藤姓足利氏が足利に築いた城(現在の鑁阿寺)同様、堀を巡らし土塁で囲まれており地域支配の拠点としての役割を担っていたと考えられます。このような藤姓足利氏による積極的な佐野進出は、中央において平氏が台頭し、平清盛の子・重盛(治承三年・1179年没)が在世の間に盛んに進められていました。現在の足利市中央部、鑁阿寺の東南にあります善徳寺境内に平重盛供養塔と伝わる五輪塔が現存しており、藤姓足利氏と平家との繋がりを感じさせます。

※ 善徳寺は室町時代の創建です。この時代藤姓足利氏の館が現在の鑁阿寺の場所にあり周辺にまだ足利学校も善徳寺も在りません。当時の足利学校は衰退しておりその跡地が現在の伊勢南町近傍に在ったことが発掘により確認されています。

足利有綱の子・佐野基綱、阿曽沼広綱兄弟がいつ頃どのような経緯から現在の佐野市中央部から南部に至る領域に覇権を確立したかは定かではありませんが、吾妻鏡に『阿曽沼廣綱(広綱)』の登場の年代を考えると、寿永二年(1183年)に下野国南部で戦われた『野木宮合戦』の結果が大きく影響していると考えられます。野木宮合戦で足利有綱・佐野基綱・阿曽沼広綱は小山朝政と共に志田義広並びに藤姓足利氏俊綱と戦い勝利しています。有綱、基綱、広綱らが佐野に支配権を確立し自立したのはこの戦の結果であろうと考えられます。

3. 野木宮合戦

『野木宮合戦』の結果、藤姓足利氏は滅亡したと考えられています。しかしこの『野木宮合戦』に関しては多くの謎や疑問が提起されています。その一番が「発生の年代」です。吾妻鏡の記述によれば『野木宮合戦』は治承五年(1181年)閏2月23日に行われたと記されますが、近年の研究では『野木宮合戦』は寿永二年(1183年)2月23日に行われたとする説が有力です。肝心の吾妻鏡の寿永二年の記述が丸々欠落している事もあり、この論争は現在も続いています。

さて吾妻鏡には『野木宮合戦』が志田義広が藤姓足利忠綱と相計り鎌倉に攻め上る事を意図した謀反と記されます。義兼の所領である「足利」を基盤とした氏族の反乱で在り、鎌倉における義兼の動向や関与が注目されても不思議ではありませんが「足利義兼」の名はこの戦の記録に一切登場しません。『野木宮合戦』が行われたとされる治承五年(1181年)もしくは寿永二年(1183年)当時義兼は北条時政の娘を娶り頼朝の義兄弟として鎌倉に在ったと考えられますが、同じく鎌倉に在った「長沼宗政」が兄・小山朝政の下に急ぎ参じた逸話を吾妻鏡に残した事に比べ、当事者とも言える義兼の動向が記されていない事は奇妙とも言えるでしょう。この記録が無いと云う事から藤姓足利氏が源姓足利氏(義兼)に従属する者では無く、また同時に足利郡内における義兼の軍事的実力(動員力)が皆無に等しい物であったとする見解もあります。他方、藤姓足利忠綱と同族でありながら敵対する事となった足利有綱以下、佐野氏、阿曽沼氏の動向について義兼の働きが在ったとする説も聞かれます。

戦いは志田義広と小山氏との間で口火が切られ、そこに後詰めする形で下河辺氏や足利有綱以下、佐野氏、阿曽沼氏が参加し、一日足らずで決着しました。敗北した志田義広は源義仲の下に逃亡します。また戦いに参加するまでもなく敗れた藤姓足利氏忠綱はいったん上野国に謹慎するも後に山陰を経て西海方面に逐電したと伝聞が記されます。そして志田義広に従った者は皆、所領を没収され、小山氏をはじめとする勝者がその所領を分かち合います。足利有綱以下、佐野氏、阿曽沼氏が佐野地域に確固たる自立基盤を築いたのはこの戦いの勝利が大きな要因となったのだと考えられます。

『野木宮合戦』の後、足利にとって重要な後日談が吾妻鏡に記されています。同年9月7日の条に頼朝が藤姓足利氏四代目当主俊綱(先に登場した忠綱の父)を追討すべく三浦氏の一族・和田義茂を向かわせたとあります。そして早くも13日には和田義茂から、俊綱が家臣の桐生六郎により討たれた事が伝えられます。この桐生六郎なる人物は忠綱を西海方面に逃がした者と同一人物です。藤姓足利氏はここに滅亡する事となりました。以後、義兼が足利郡全域(現在の足利市渡良瀬川以北の地域)に知行権を行使できる立場となったと考えられていますが、実際、足利郡内には足利荘の他、国衙領や都の権門の荘園が多数存在しており、この時代の鎌倉政権にはそれらすべての所領を義兼に知行させる権限は有りませんでした。(現在の足利市渡良瀬川以南の地域は梁田郡と呼ばれ義兼の兄・足利義清が有する地域で在ったと考えられています。)

4. 源姓足利氏の発展と佐野氏一門との共栄

源頼朝の下で足利郡内に地歩を固めつつあった義兼に対し、兄である義清は源義仲の旗下にありました。頼朝と義仲は親の代からの競争関係にあり、この時期には平氏を都から駆逐した義仲が優越の位置にありました。ところが義仲は都で朝廷に疎まれ、更に平氏を追って中国地方に出するも寿永二年(1183年)閏10月1日の備中国水島の戦いに大敗してしまいます。義兼の兄・義清はこの戦いで討死しています。更に頼朝と手を結んだ朝廷が発した「 寿永二年十月宣旨」により両者の立場は完全に逆転し、寿永三年(1184年)1月20日粟津の戦いで義仲もまた敗死を遂げています。

義仲旗下にあった兄・義清の戦死により、義清が有した梁田郡内の所領もまた世襲的に義兼が有する事になり、義兼の支配圏は現在の足利市域に匹敵する領域にまで拡大しました。しかし当時の領国支配は長年にわたり農民層に血縁を浸透させた土着氏族が重層的な支配体制を確立していました。足利郡内は滅びたといえども藤姓足利氏の縁者が農民支配層の多数を占めていたと考えられ、同様にの梁田郡内においては高階氏(後の”高”氏)の一族が土着民の支配層に在ったと考えられます。元は200町程の小荘園領主であった義兼にとってその数倍にも急拡大した領域を運営するためにはそうした既存組織と協調路線をとる必要がありました。しかしここには大きな問題がありました。それは、滅びた藤姓足利氏と高階氏とは古からの因縁があり、特に康治二年(1143年)の梁田御厨荘設置以降”給主職”を巡り両者の間に二十年近くの争論が続き、決着の後も遺恨を残していた事でした。この当時(足利俊綱・忠綱無き後)定かな記録は有りませんが、足利有綱が藤姓足利氏一門の棟梁として台頭していたであろうと推測されます。それでもこの時点では両者に利害の衝突する事態は生じていませんでした。

寿永三年(1184年)8月8日、冒頭に記した通り『阿曽沼(浅沼)廣綱(広綱)』は『平家追討軍』の16番目にの名を記され鎌倉を発しました。そして元暦二年/文治元年(1185年)2月26日には平家の後背を突くべく九州豊後国に渡る武者中に義兼と共に浅沼四郎廣綱の名が確認されます。そして元暦二年/文治元年(1185年)3月24日に壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡する事になりました。戦後、鎌倉において勝長寿院(頼朝の父・義朝の菩提寺)の落慶が営まれその参列者中に次の三名の名が記されます。

  • 上総の介義兼
  • 足利の七郎太郎(足利七郎有綱か?)
  • 佐野の又太郎(佐野太郎基綱か?)
  • 浅沼の四郎廣綱
文治元年(1185年)11月、朝廷は鎌倉政権の「守護・地頭の設置」の権限を認め 文治の勅許を発します。これにより鎌倉政権は国衙、荘園を問わず支配する地頭職の任免権を手にし、地頭職の任免を以て武者の所領を安堵し、武者を御家人として鎌倉政権の支配下に置くことになりました。御家人は幕府の求めに応じる義務を有する事となります( 御恩と奉公)。

その直後の文治二年(1186年)足利で発生した事件が今に伝わります。足利有綱が源姓足利氏と佐野の赤見で戦い敗れ自刃したと云う話です。それがどのような事情で発生したかを詳しく記すものは見つかりませんが、その後、鎌倉時代を通じて足利家の家政を高階氏(=”高”氏)が取り仕切るようになる事を考えると、鎌倉政権が正式(文治の勅許に基づき)に義兼を足利郡、梁田郡の地頭に任じた際、地頭の現地代理人である「現地沙汰人」の座を争い両者が衝突し、結果、有綱が敗北したのではないかと考えられます。この件は吾妻鏡にも記されない小さな出来事であり、足利家内の問題として処理されたと思われます。

5. 阿曽沼(浅沼)氏と三浦氏

文治五年7月19日 奥州討伐の軍列の中に佐野の太郎基綱阿曽沼の次郎廣綱の名を確認できます。それ以前の吾妻鏡の記述には浅沼姓で記されますが、ここには阿曽沼姓で記されており、また”四郎”が”次郎”であったりと混乱も見られますが同一人物と思われます。

文治六年/建久元年(1190年)11月7日の頼朝上洛の大軍勢の中に次の名を確認できます

  • 十五番  佐野の又太郎(佐野基綱か?)
  • 五十三番 足利の七郎四郎(足利七郎は足利有綱の名であり、その子四郎ならば”阿曽沼広綱”)
  • 五十三番 足利の七郎五郎(同じく五郎ならば”木村信綱”)
  • 五十四番 足利の七郎太郎(太郎であるならば”佐野基綱”だが、兄弟何れかの誤記か?)

建久四年(1193年)5月8日富士野・藍澤の夏狩りにも”浅沼の次郎”の名を確認できます。尊卑文脈では阿曽沼広綱の子は共に次郎とあり親綱または朝綱と思われる。この時有名な「曽我兄弟の仇討」事件が発生しています。

建久六年(1195年)3月10日 東大寺供養を兼ねた頼朝上洛の軍勢の中に次の名を確認

  • 佐野の七郎(該当者不明)
  • 阿曽沼の小次郎(尊卑分脈で広綱の孫<朝綱の子>にその名を確認)
  • 足利の五郎(木村信綱か?)

※ 余談ですが、足利の五郎の郎党が同年5月15日、都の六条大宮で三浦義澄の郎党と乱闘になったそうです。

同年5月20日の頼朝の天王寺参りの列にも”阿曽沼の小次郎”の名を確認できます。この列中に義兼の名も記されますが、これが吾妻鏡における義兼の最後の記述となります。

阿曽沼姓と浅沼姓が入れ替わり登場したり広綱が四郎や次郎と記されたりと、吾妻鏡は以前から誤記や混乱が指摘されている通り正確性には疑問も残ります。それでも阿曽沼氏が鎌倉時代の初めに頼朝の御家人として活躍し、東大寺の開眼供養に随行したという記録は歴史に残された誇らしい足跡です。そうした阿曽沼(浅沼)氏の一族がどのような経緯で足利の菅田・樺先の地に土着したかは定かではありませんが、いうまでもなくこの地域は藤原秀郷以来、その子孫が開拓し在地の支配を確立してきた土地です。土着民の多くが秀郷の縁につながる一族で在りましたから、婿取りなどにより名門「阿曽沼氏」の名を得たことは十分に考えられる出来事です。

また別の見方として幕府重臣・三浦氏の関与ととれる点もあります。それは阿曽沼広綱の兄の一族・佐野氏が、宝治元年(1247年)の『宝治合戦』で三浦氏が滅ぼされたことで暫し家勢が衰えたと伝わる事から、佐野氏(阿曽沼氏)は三浦氏と縁浅からぬ仲で在ったのでは無いかということです。先にも述べた通り治承五年に佐野氏・阿曽沼氏にとって宗主とも言える藤姓足利氏俊綱を追討したのは三浦氏の一族・和田茂盛でした。その戦いに足利荘領主・義兼も参陣したという説も聞かれます(吾妻鏡に記載なし、真偽不明の風聞)。同様に佐野氏、阿曽沼氏も参陣したとしても不思議は有りません。追討において戦いは有りませんでしたが、ここで佐野氏・阿曽沼氏は三浦氏との間に繋がりを持ち、参陣の褒賞として足利荘の内・菅田の一角に所領を有したのかも知れません。足利荘の内・樺崎には別稿で紹介した三浦氏の一族『長義季』が土着しておりましたが、義季もまた三浦氏の一族であり、藤姓足利氏追討を任じられていた和田茂盛の叔父にあたる人物でした。そうした血縁も影響したかも知れません。

このように治承寿永の年代に足利と鎌倉(三浦氏)をつなぐ鍵となった一族が現在に至るまで光得寺を護持する一翼を担ってきたことは、興味をそそられる事実では無いでしょうか。最後に、尊卑文脈において浅沼広綱より四代後の浅沼氏綱が下野守となった事が記されていることを加えさせていただきます。

長河内守五郎義季 
足利の昔 (4)

昔、足利の樺崎に長義季と云う人物が居ました。

生まれは相模国(現在の神奈川県)、有力氏族「三浦氏」の当主・三浦義明の五男として誕生しました。三浦氏は元は房総半島に根を下ろした良文流平氏の一族であり、河内源氏には初代源頼信の代に故あって臣従した一族です。義季の父・義明は源義朝・源頼朝の親子二代に仕えており、源義朝の南関東制覇を支え、平治の乱に敗れた後の源頼朝にも変わらず忠義を尽くし、源頼朝挙兵を画策し、頼朝が初戦の「石橋山の戦い」に敗れると頼朝と一族を安房国に逃がすた籠城し討死したと云う源氏の守護神のような人物でした。三浦氏はその後義季の兄・三浦義澄が家督を継ぎ、鎌倉幕府の創設に尽力するも北条氏との政争に敗れ滅亡してしまいます。しかしその血脈は義季を通じて足利に根付き、現在も長家の一族の中に生きています。

長義季の名は国立国会図書館所蔵故実叢書. 尊卑分脈(洞院公定)21ページに三浦義明の子・長五郎の名で記されており、また樺崎寺から引き継がれ代々伝えられたと考えられる光得寺の過去帳「各家門姓」の筆頭にも長元祖・三浦大介平義明ノ五男、長河内守五郎義季の名で記されています。

長姓の一族について詳しく記した本が足利市役所の郷土資料館に収蔵されています。それによれば栃木県は長姓が際立って多い県であり、小山・栃木・佐野・足利と栃木県南部に集中し、多くが桓武平氏由来の『丸に揚羽蝶』の家紋を用いおり、地理的に考えて桓武平氏国香流の一族が西暦939年の平将門の乱の後に下野国(栃木県)南部に移り住み、秀郷流藤原氏と婚姻しながら土着した氏族であろうと推測されています。足利の樺崎八幡宮を源義家と共に創建し、歴代宮司に任じられた長氏も同じ一族の者です。樺崎八幡宮創建当時の長一族もまた田堵・負名と呼ばれた富農の一族が桓武平氏の血筋を受け入れ武士となった一族だったと思われます。

そうした長姓の一族と三浦一族の義季がどのようにして縁を結んだのかは定かでは有りません。その時期を推測するには先ず義季の生年と没年を調べる必要がありますが、残念ながら生年は不詳です。没年については幸い光得寺過去帳から西暦1204年である事が確認できます。義季の没年齢が60~70歳で在ったと仮定すると誕生は1134年~1144年頃では無いかと考えます。兄・三浦義澄が西暦1127年の生まれとあるので概ねこの想定は的を射ているでしょう。父・義明は西暦1092年生まれでしたから42歳~52歳頃の子と云う事になります。義明は享年89歳と当時としては長寿であり、義季も意外と長寿で有ったかも知れません。

では、いつ頃足利の樺崎の「長一族」と知己を得たのでしょうか。最も遅い時期としても『治承寿永の戦い(1180年)』と呼ばれる源頼朝旗揚げの戦いの当時を下る事は無いでしょう。この年代には義季は36歳~46歳になっています。源頼朝旗揚げを画策した三浦義明の命を受け、足利義兼の元に参陣を促す使者として立ち、其の後「長一族」と知己を得て土着したと考えても無理は有りません。この仮説に従うならば、当時義兼の本拠地はやはり樺崎であり、「長一族」がその配下として臣従していたと考えられます。

別の時期を想定すると更に20年ほど遡る西暦1160年の平治の乱の後では無いかとも考えられます。この時代西暦1154年頃誕生と伝わる義兼は6歳くらい、義季は16歳~26歳になっていました。平治の乱に於いて三浦氏は源義朝と共に平家と戦い敗れて後坂東に落ち延びています。平家の追討を覚悟し、義季を足利に預け(実際には源義重に庇護を求め)た可能性は在るかも知れません。そしてより大胆な仮説を良しとするならば、この時三浦氏により都に居た義兼が源義重の庇護下に避難してきたのかも知れません。それは義兼の父・義康が源頼朝の父・源義朝と共に都の鳥羽上皇の元で僚友として活躍しており、坂東においても義康の兄・義重(新田氏の租)が義朝の嫡男・義平に娘を嫁がせ義父と成り共に武蔵の大蔵屋敷で源義賢を討っなど活躍した事などから、義朝・義平親子の相模国と義康・義重兄弟の上野国・下野国南部は良好な同盟関係に有ったからです。

義季について別の記録が残されています。相模国三浦の長井郷を領し長井義季と名乗ったと云う伝承です。現在の横須賀市長井町に長井城という城跡が残されており、観光案内によれば義季もしくは三浦義澄の築城とありました。三浦氏が三浦半島に勢力を扶植させたのが父・義明が三浦介を号した西暦1124年頃とされます。義季は幼い頃を長井の郷で過ごしていたのでは無いでしょうか。

最後に「家紋」について補足します。平氏である長家の家紋は先にも述べた『丸に揚羽蝶』紋ですが、三浦家の家紋は「三浦三つ引両」と呼ばれる異なる家紋です。義季が婚姻により「長」家の家督を相続した事が分かります。現在も足利の”長”姓の皆さんは、この長義季の子孫と言われています。

樺崎寺と樺崎八幡宮
足利の昔 (3)

光得寺が在る足利市菅田町と隣接する樺崎町とは古から深いつながりがあります。それでいて鑁阿寺縁起に記された「樺崎寺への所領寄進」の記録には月谷、田島、名草などの名が有りながら、間の菅田の名が無い事は些か不思議に思えます。もしかすると当時の菅田は隣接するいずれかの地域に含まれていたのかも知れません。そうであるならば当時の菅田は自然境界である名草川あたりまで樺崎の一部として扱われていたかも知れません。

さて今回の話題は、その「樺崎」の昔のお話です。

樺崎の名前は『樺崎寺』の在る場所としてWikipediaにも登場します。現在の『樺崎寺』跡には、『樺崎八幡宮』が残されており、両者をひとつのものと混同してしまう事があるようですが、はじめ『樺崎八幡宮』が創建され、そこを中心に様々に伽藍が整備され『樺崎寺』となったと云うのが順番の様です。
『下野神社沿革誌』によれば『樺崎八幡宮』は西暦838年に一族の租・長六郎平爲により建立された『赤土神社』に、西暦1056年、源義家が八幡神を勧請・合祀し八幡宮とし、更に西暦1199年に生入定された義家の曾孫、足利義兼の御霊をも合祀したとされます。『樺崎八幡宮』の宮司は歴代一族の者がその任に当たったと記録されています。
一方の樺崎寺は、足利義兼が帰依していた理真上人に奥州征伐出陣に際し樺崎を寄進し、戦勝祈祷を願い、その時の『祈禱所』が後に下御堂と呼ばれた樺崎寺(寺院群)の中心堂宇であると言われ、義兼の御霊を祀る通称「赤御堂」は八幡宮社殿を指して居るのでは無いかと考えられています。同じ供養施設でありながら立場の違いから呼び方が異なって居たようです。樺崎寺の責任者である「別当」には理真上人以降僧侶が任じられ足利氏一門の安寧を祈願して行きました。このように神仏が合祀される例は鶴ケ丘八幡宮などにも見られ当時は特別な事では有りませんでした。

しかし明治四年、神仏分離令により当時既に廃寺同然であった樺崎寺(下御堂とされるが定かではない)は手続き上廃寺となりました。これにより『樺崎八幡宮』だけが残されました。この神仏分離令は寺の打ち壊しなど求めて居ないのですが、世間の流れに流され樺崎寺を打ち壊したのかも知れません。その際に流出したと考えられているのがニューヨークのオークションで騒動を巻き起こした『真如苑像』です。

『下野神社沿革誌』の記載によれば『樺崎八幡宮』には足氏に関わる宝が残されていたとあり、その中の『楠の丸彫笈』と『厨子二箇(雲慶作・八幡太郎義家の像、地頭堀欽太郎より奉納)』が光得寺に移されたと記されますが、現在光得寺に現存する運慶作と考えられる『大日如来坐像』は残念ながら八幡太郎義家の像とは考えられません。

樺崎寺が廃寺同然となったのは、戦国時代末期に大檀那である足利氏没落に始まり、太閤検地で所領が改められ、その後発せられた徳川幕府の寺院統制法令により寺の維持が困難になったためです。幸いにも樺崎寺に伝えられていた歴史的な遺物は廃寺の際に近在の者により光得寺に運ばれ現在に至りますが、文書を始めとした多くの記録がこの時期に散逸してしまいました。