足利の歴史を紐解く重要な史料である「鑁阿寺縁起」の内、江戸時代に記されたと見られている「鑁阿寺別縁起」に興味深い記述がありますのでご紹介します。
(原文)観応二年/正平六年(1351年)二月従二足利城山一如二火柱長二丈(約6m)計者飛落二的山一。従二的山一飛来二城山一七度。又此年城山井水充満。手直汲レ之間十二日。始二月二日至二十三日一。水如レ常。而後鎌倉滅尊氏興。嗚呼寄哉。傅言。若有国家大變。則此兩山震鳴也
記事の「西暦1351年」という年は足利尊氏が弟・直義と争った「観応の擾乱」の只中にあり、その年の2月に光得寺五輪塔に名が刻まれる高師直を始めとした「高一族」が上杉一族により謀殺されています。まさにその同じ時足利の的山に「長さ二丈(約6m)の火柱の如きが飛落した」と記されています。恐らくそれは『赤気』と呼ばれていた『オーロラ』(極光)で有ったと思われます。事実「日本気象資料・第十三編赤気(極光)」の記録によれば古くは日本書紀に記された推古天皇の時代の観測に始まり、平安時代末から鎌倉時代に掛けては比較的頻繁に観測されていたようです。特に日本の天文史においては鎌倉時代に藤原定家が記した『明月記』建仁四年正月十九日(1204年2月21日)の条が殊に有名です。しかし残念ながらこの「日本気象資料」の中に「鑁阿寺別縁起」に記された日時に一致する記録は確認できませんでした。しかし翌年の観応三年/正平七年(1352年)八月十二日にはおよそ百年振りとなる赤気の観測が記録されており、「鑁阿寺別縁起」の記述はこの観応三年の『赤気』の観測と同じ事象を記したのでは無いかと考えられます。
なお、「鑁阿寺別縁起」の追記には『下野風土記』の記事として同様の話も紹介されています。それは清和天皇の代、貞観十八年(876年)正月の事、同じく的山の方角に「石火の如きもの」を観測した事が記されます。これもまた日本気象資料には日時が一致する記録は見られませんが貞観十七年(875年)に雲気(赤気の一種か?)の観測が記録されており、更に前年の貞観十六年(874年)にも黄赤気の観測が記されていました。「鑁阿寺別縁起」のそれら「赤気」の発生は何かしらの異変の前触れで有るように記している事が印象的です。(「赤気」は必ずしも凶事の予兆とだけ見られてはいませんでした。)
その貞観の時代は天災の時代でした。貞観六年には富士山が歴史的大噴火を引き起こし現在の青木ヶ原樹海を作り出し、貞観十一年には東日本大震災に匹敵する『貞観地震』が発生しています。そうした相次ぐ自然災害を恐れる気持ちが『赤気=オーロラ(極光)』という稀な自然現象を変異の前触れと恐れを抱かせたのかも知れません。
科学の進歩した現代の私達は、『オーロラ』が自然現象である事を科学的に理解できるようになりましたが、一方でオーロラの正体である磁気嵐が電子機器に破壊的な障害を与える事も知っています。おかしな話ですが大昔「赤気」を「災害の予兆」と考えた事は明らかに迷信でしたが、現在「オーロラ」は「災害の元凶」であり災いの象徴でもあるのです。