光得寺開山で在られます足利義兼公は正治元年3月8日(1199年)に入寂なされました。3月8日は旧暦であり現代の暦では4月5日に相当します。当山においては陰暦の3月8日を開山忌として義兼公のご供養をさせて頂いております。
義兼公は建久六年(1195年)に東大寺で出家し法名義穪(義称)を名乗りました。後に追號され鑁阿上人と呼ばれ、また埋葬された場所に朱塗りの御堂が建てられた事から赤御堂殿とも呼ばれています。
義兼公は永遠の瞑想を求め生入定したと伝わります。義兼公が生入定されたその年(1199年)の初め鎌倉幕府初代将軍・源頼朝公が亡くなられております。生入定には其処に至るまでの準備に何年も要しますから、義兼公は既に生入定の準備を進めていたところで義理の兄でもある頼朝公の訃報に接し生入定の決心をされたのかも知れません。
現在の樺崎八幡社殿床下に義兼公入定の地との碑文がが残されている事から、この地が義兼公入定の地と見られています。