開山・足利義兼公の軌跡

義兼の前半生

光得寺開山・足利義兼は久寿元年(1154年)の生まれと考えられており、義兼がまだ2、3歳であった保元2年5月29日に父・義康(足利氏初代は義兼)と死別しています。その後治承四年(1180年)に頼朝の前に現れた義兼は既に25~26歳の青年になっておりましたが、それ以前の義兼の活動・居住地について有力な史料が有りません。尊卑分脈に義兼が八条院蔵人と記されることから京において活動していたとする説明もありますが、八条院蔵人なる職は公職では無く八条院に属する働く者が称した俗称のようです。源行家も源頼政から同職に補任され「以仁王の令旨」を届ける使となったと言われており八条院蔵人が即ち京での活動を意味するとは限りません。義兼の前半生はいまだ謎のままです。 通説では義兼が義康家の代表相続者(嫡子)であるため足利を継承したと言われますがこれは後世の創作です。義康の主力地盤は大きさからして梁田御厨荘であり、その地を受け継いだのは義兼の異母長兄の義清でした。義清並びにその同母弟の義長は義康同様京で活動し、治承寿永の乱がはじまると「以仁王の挙兵」に呼応し源頼政に合流し、頼政敗死の後は源義仲旗下に身を置き平家と戦っています。義兼と全く行動の連携が見られません。このことから義兼は在京しておらず、足利に基盤を置いて自立していたと考えています。 長義季 近年光得寺の過去帳に「三浦大介義明五男長河内守五郎義季(長義季)」の名が確認されました。長義季の父・三浦義明は桓武平氏の流れを汲む相模平氏一門であり、源義家の父・源頼義が平直方から鎌倉の地を譲られて以来の主従関係にありました。前九年・後三年の両戦役、保元の乱、平治の乱において坂東武士団の主力を為した一族です。義明は治承四年に「源頼朝挙兵」に応じて旗揚げしますが頼朝が「石橋山の戦い」に敗れたことで衣笠城に孤立し籠城戦の末討死してしまいます。長義季はその義明の五男で有り、相模国三浦郡長井郷を領し長井の姓も名乗ったとも伝わります。義季がどのような経緯で長氏の家督を継ぎ光得寺過去帳に「長家元祖」として名を遺したか定かでは有りませんが、長家と三浦家は共に桓武平氏の流れであり水面下で繋がっていたと考えられ、頼朝の挙兵にあたり義季が使いに立ち義兼並びに長一族の協力を約する働きをしたのだと思われます。 義兼が頼朝の下に向うのは、藤姓足利氏からの脅威が切迫した状況にあった事も要因と考えられますが、同時に長義季の働きかけも大きく、その約定通り義兼が頼朝の下に参上した事がその後の運命を決めたとも言えます。これまで旧知の仲とは考えられない義兼と頼朝の面会を誰が仲介したかが不明でしたが、その労を担ったのは長義季で有ったと考えられます。 義兼が足利のどこに住んでいたかという具体的な問題については様々な見解がありますが、義兼-長氏-義季の関係からも「光得寺縁起編纂委員会」としては足利荘比定地である菅田・樺崎地域に居を構えていたと考えます。

吾妻鏡における義兼の記録

当時の義兼は名門の血を引くものの山間の僅か数ヶ村を束ねていたに過ぎない北関東の小領主・小勢力です。頼朝の下に向かう義兼に同行したと思われる山名義範(義兼の兄・義清の子、義兼の甥)も似た境遇に在りました。その二人が頼朝にとって価値ある存在として認められ厚遇される条件は頼朝が覇権を確立する以前と考えられ、そこから頼朝が隅田川河畔に滞陣していた治承四年9月19日から29日の頃に面会したと考えています。その後頼朝は義経、範頼など兄弟の合流を得て勢力を拡大し、富士川の合戦、金砂城の戦いと連戦連勝し関東に於ける覇権を確立してゆきます。 続けて義兼の吾妻鏡における治承四年(1180年)から建久六年(1195年)の15年間記します。
和暦 西暦 月日 出来事
治承四年 1180年 12月12日 頼朝の新邸入御の列に北条父子に続いて並ぶ
治承五年 1181年 2月1日 義兼、北条殿の息女を娶る。
11月5日 義兼・義経・土井實平・土屋宗遠・和田義盛等、遠江国へ向かわんとする
養和二年 1182年 1月3日 頼朝御行初め。義兼・北条殿・畠山重忠・三浦義澄・和田義盛が列に続く
4月5日 江ノ島に向かう頼朝に同行する列にあり。
寿永三年 1184年 2月7日 (一之谷の合戦)蒲の冠者(範頼)並びに足利・秩父・三浦・鎌倉の輩等競い来たる。 ※ 本文中に足利の名が確認できるが、藤姓足利氏の連枝の者と思われ、義兼とは無関係。念のため記す。
5月1日 義兼、甲斐の国に発向(木曽義高残党の追討の為)
8月6日 平家追討に再度出陣するに際し頼朝は酒宴を催し、範頼、武田義信、足利義兼らに餞別として馬を下賜する。
8月8日 義兼、範頼旗下として平家追討に出陣する。 ※阿曽沼広綱の名が記される。
元暦二年 1185年 1月26日 義兼、義範と共に軍を進め九州・豊後国に渡る。 ※阿曽沼広綱が浅沼広綱と記される。
6月7日 鎌倉・頼朝の御前に平宗盛が引き出される。義兼も列席。
8月29日 義兼、上総介に任官す。
10月24日 義兼、勝長寿院における供養に参列。 足利の七郎太郎の名を認るが、阿曽沼(浅沼)広綱の兄・佐野基綱と考えられる。
文治三年 1187年 12月16日 義兼の北の方(時子)の急病に際し政子が見舞う。 この時期、義兼も時子も鎌倉に滞在していた事がわかる。
文治四年 1188年 1月6日 義兼、頼朝に椀飯を献ず
3月15日 鶴岡宮において大法会を遂行。義兼参列す
※この年義兼は鎌倉屋敷近くに稲荷山極楽寺(後の浄妙寺)を創建しています。
文治五年 1189年 7月19日 義兼、奥州征伐に出陣す ※この戦いに際し戦勝祈祷の為「理真上人に樺崎郷を寄進」と鑁阿寺縁起(古縁起)に記される。この祈願所が後に下御堂(號法界寺)となる。
9月18日 泰衡一方の後身熊野別当、上総の介義兼これを召し進すとある
※ この年足利義氏誕生。義兼は理真上人の安産祈願への感謝として樺崎の大窪郷を寄付しており、老後は山麓に草庵を結び閑居したと鑁阿寺縁起(古縁起)に記される。理真上人閑居の址は宗源寺となる。
文治六年 1190年 1月13日 上総介義兼、大河兼任の乱の鎮定に発向す
2月11日 「関東御管領九ヶ国内である上総国は義兼を国司として補任していたが、去年辞退の間、平親長を任じ今日目代等国務す」とあり、続く記載でも義兼を上総の前司としているが、その後建久二年1月以降では再び上総介義兼の名が記される。再任の記録は確認できないがこの時期以降も上総介と記される場合は義兼の記録と見られる。
2月12日 大河兼任一万騎を打ち破り乱を鎮定する ※義兼最後の戦働き
建久二年 1191年 1月28日 幕下二所御精進の為、由比浦に出御す。上総介義兼従う。
2月4日 前の右大将家二所御参りの列中に上総守とある。上総介の誤記か?
7月28日 寝殿・対屋・御厩等造畢の間、今日御移徙の儀なり。上総介他供奉す。
8月1日 大庭の平太景能新造の御亭に於いて盃酒を献る。その儀強ち美を極めず。五色の鱸魚等を以て肴物と為す。足利上総介陪席す
8月6日 御移徙の後、御行初めの儀有り。上総介以下供奉人済々焉たり。
8月18日 御厩に立てらる。一疋(鴾毛)上総介進す
建久三年 1192年 8月15日 上総介義兼奉幣の御使いとして廻廊に着しとある
11月25日 永福寺の供養に上総介義兼供奉す
12月5日 濱の御所に召し聚めらる。上総介の名もあり
建久四年 1193年 1月1日 上総介義兼座を起ち参進して御簾を上ぐ。
5月16日 富士野の御狩り。上総介、江間殿(北条義時)参候す
5月29日 前夜「曾我兄弟の仇討ち」と呼ばれる事件が発生する。首謀者のひとり曽我の五郎(時致)が召し出される。上総介も候ず。
9月11日 江間殿嫡男の童形この間江間に在り。昨日参着す。上総介・伊豆守以下数輩列候す
鑁阿寺縁起(古縁起)より「下御堂(號法界寺)...三尺皆金色金剛界大日如来像...奉安置寶形御厨子...これが真如苑像と呼ばれる伝・運慶像です
建久五年 1194年 1月1日 鶴岡八幡宮に御参り。上総介義兼は御征箭
2月1日 江間殿の嫡男元服す。上総介義兼列す。
8月1日 将軍家相模の国日向山に参り給う。上総介義兼列す。
閏8月1日 将軍家三浦に渡御す。上総介義兼参ず
10月18日 上総介義兼御使いとして日向薬師堂に参る
11月13日 上総介義兼、鶴岡八幡宮に於いて両界曼陀羅二鋪を供養す
11月14日 上総介義兼、昨日供養する所の曼陀羅は、将軍家の御祈祷なりてえり。
12月26日 永福寺内新造の薬師堂供養、上総介義兼供奉す
建久六年 1195年 1月1日 上総前司義兼椀飯を献ず。
1月13日 将軍家鶴岡八幡宮に御参り。上総前司以下供奉す
3月9日 将軍家石清水並びに左女牛若宮等に御参り。上総介義兼等後騎たり。
3月10日 将軍家東大寺供養。将軍(御車)上総介(相並ぶ) ※随兵に阿曽沼小次郎、佐貫四郎、足利五郎、佐野太郎 等の名前
5月20日 天王寺に参り給う。上総介義兼供奉す

建久六年(1195年)以降の義兼

吾妻鏡の記述は建久六年12月を最後に建久十年2月まで欠落します。再開は二代将軍源頼家が補任されたところから始まります。光得寺開山・足利義兼の動向もまた建久六年2月14日から7月8日までの頼朝上洛に同行したのを最後に途絶えます。頼朝が3月10日に催した東大寺の再建供養会には義兼も列席し、頼朝が14日に京に戻ると記されるなか義兼はひとり東大寺に残ったのか、尊卑分脈の記述では同月23日に東大寺おいて出家したと有ります。出家した義兼は法名「義穪(称)」を名乗りました。しかし5月20日の「頼朝の天王寺参拝」の供奉衆中に義兼の名が認められており、これが記載の誤りか事実であるかは意見の分かれるところです。 頼朝にとってはこの上洛の主眼は東大寺再建供養では無く、娘を入内させる為の朝廷工作でした。そして頼朝の残りの人生は、娘を入内させる為の朝廷工作に費え去ります。頼朝の鎌倉帰着を記した吾妻鏡の記事に「今度御上洛の間供奉の御家人等、多くこれ身の暇を賜り帰国すと」と云う一文があります。義兼は、戦働きで出世した者達が「狡兎死して走狗烹らる」という状況にある事を察知しこの時期に身を引いたという事でしょうか。これが義兼他の引退を意味するのかは意見の分かれるところです。 義兼の隠棲 鎌倉を辞し妻・時子を伴い足利に戻った義兼は、頼朝から拝領した新領(旧・藤姓足利氏の所領、五箇村および以西の地)の屋敷(現・鑁阿寺)を引き払い、青年時代を送った現在の菅田・樺崎(名草川以東)に戻ります。それはその地が義兼の本貫地であるとともに、親族を供養する為に建てた「法界寺下御堂」、奥州遠征に向かう際理真上人に依頼して建てられた「祈願所」、そして奥州から戻った後に作庭した平泉・毛越寺の庭を模した「浄土式庭園」とその西岸に建てられた「阿弥陀堂」など、義兼が半生を傾けて一山の容貌を整えた樺崎寺の寺院群があり、樺崎の大窪郷に閑居していた理真上人や兄弟弟子の隆験と共に静かな時間を送ろうとしたのでは無いかと思います。(現在法界寺の場所は諸説あり確定できず、また阿弥陀堂も阿弥陀池との関係から存在は確実視されながらも痕跡を確認できていません) その後「足利」の名は吾妻鏡に登場する事無く、元久二年(1205年)6月22日の条に記された「畠山重忠討伐」の陣揃えの内に足利義氏の名が見いだされるのを待つ事となります。それまでの足利氏の動向は全く記録に有りませんが、畠山重忠の討伐後、足利義純が畠山の名跡を継ぐ事から、それまでは義純が足利家の家政を切り盛りし北条一門から信頼されていたと考えられます。義兼隠棲後新領の屋敷地は公文所となってゆき、足利氏は義氏の代となります。 晩年の義兼 義兼は建久七年6月8日に妻・時子を病で亡くし、更に同月12日には理真上人もまた示寂し義兼の下を去ります。後の話ですが足利義純は時子の為に足利屋敷の北西山麓に法玄寺を開き時子の菩提を供養ています。その後残された義兼は念仏三昧の日々を過ごし、頼朝逝去の年、正治元年3月8日に樺崎の的山の麓に生入定したと記されます。晩年の義兼が屋敷内で拝んだと考えられる(座)像高一尺一寸の厨子入り大日如来坐像は現在も光得寺に伝わります。丈六像の八分の一の大きさの座像で、立像換算二尺の御仏像です。また法界寺にも運慶作の大日如来坐像が祀られていたとされ厨子高「三尺七寸・丈三尺の御仏像」と伝わり真如苑所蔵の大日如来坐像が該当すると考えられています。

鑁阿上人足利義兼

鑁阿寺縁起は最も古い時期の製作が室町時代中期の作であり、政治状況の影響をなどにより一部に錯誤がある事が小此木輝之著作の「中世関東寺院史の基礎的研究」や、八代国治氏、渡辺世祐氏など様々な研究者により指摘され、特に義兼の動向並びに鑁阿寺創建の経緯について従来の考えに一石が投じられています。(これらの研究資料は国立国会図書館で閲覧する事が可能です。) 【主な指摘事項】 ● 鑁阿寺縁起(古縁起)等において義兼高野山に実在した高僧・鑁阿上人と同一人物であるとされるが、残された記録から両者は明らかに別人物である。 ● 高野山にならい法界寺を奥の院とする見立てを行うとすれば義氏であろう。 ● 鑁阿寺を義兼創建としているが鑁阿寺に残される文書を検証する限り寺としての鑁阿寺を確認できるのは最も早い時期で泰氏(義兼の孫)の代である。また屋敷であった当時持仏堂を建立し供養を行ったのは義兼であるが寺とする意思が在ったとは見られない。寺としての容貌を整えるのは義氏による大御堂建立の1234年以降である為義氏による創建と考えられる。 指摘の通り義兼は「高野山の鑁阿上人とは別人」です。しかし義兼が鑁阿上人と追號された事は事実と考えています。それは義兼発願で彫像された光得寺所蔵「伝・運慶作・大日如来坐像」の厨子扉に梵字で描かれる「鑁」と「阿」の二字から義兼の素意を知る事が出来き、後に子孫により高野山から頂いたのでは無いかと考えます。 ※ この「鑁・阿」にはそもそも漢字としての意味は無く、サンスクリット語の音を当てたものであり、鑁(バン)は大日如来(金剛界)を意味し、阿(ア)は大日如来(胎蔵界) を意味しており、鑁阿の二字で両界曼荼羅を指します。
鑁(バン:Van) 阿(ア:a)

源姓足利氏誕生の地「樺崎郷」

足利では一般に市内の八幡町にある八幡宮近郊が「源姓足利氏誕生の地」と考えられています。これは義兼の祖父にあたる源義国(並びに曽祖父義家)と八幡町の下野国一社八幡宮が深い縁で結ばれており、そもそも足利荘立券が義国の功績で有り足利式部大夫と呼ばれていた事も根拠として挙げられ全く異論の余地は有りません。

他方足利氏を武家として成立させたのは紛れもなく足利義兼であり、”足利”と云う名を公においても名乗るようになったのも義兼がはじめと伝わります。事実上の足利氏の初代は義兼である事にも反論の余地は無いでしょう。そうなると鑁阿寺古縁起において「樺崎者」とされた義兼が前半生を過ごした足利荘(菅田・樺崎)こそが真の「源姓足利氏誕生の地」であるとも言えます。

しかし現時点で足利(菅田・樺崎)荘内に義兼の屋敷地と断定できる痕跡は発見されていません。そこで大正時代に鑁阿寺住職により記された「足利庄鑁阿寺」内にある「菅田稲荷山に在った足利氏初代・義康の遺跡が鑁阿寺に移された」との記述と、同所の「菅東山稲荷神社が義兼が義兼創建であると」の伝承を元に、その稲荷社と足利荘公文所(現鑁阿寺)内の稲荷社との間の関係性について別項にて検証を試みてみました。そしてその深い関係性から「光得寺縁起編纂委員会」としては光得寺こそが晩年の足利義兼屋敷地では無いかと考えました。

余談ではありますが、八幡神を信仰し多くの八幡宮を建立してきた源氏一族である義兼が、なぜ稲荷社にこだわったのでしょうか。義兼が鎌倉に創建した極楽寺(のちに浄明寺→浄妙寺)は鎌倉の名前の由来となったとされる「鎌足稲荷」の近くに創建され、その山号は稲荷山(とうかさん)と號していました。義兼の稲荷社に対する思いが何処に在ったのかは定かでは有りませんが、それは「鎌足稲荷社」に祀られる藤原(中臣)鎌足と天智天皇の関係に自らと頼朝の関係を投射した物であったのかも知れません。