開基・足利義氏と樺崎寺

義氏の誕生

光得寺開基(創健者)足利義氏は文治5年(1189年)に足利義兼の正室・時子を母として生まれますが、幼くして父母を失い伯母の北条政子と伯父の北条義時を後見人とし鎌倉で成長する事になりました。成人した義氏は政子が亡くなるまでの26年の間に武蔵守を経て陸奥守にまで昇ります。晩年までに三河国を始め全国に所領を広げ、その結果義氏の子供や孫の世代が各地に移り住み、南北朝~室町期に掛けて活躍する足利氏一門を形成してゆきました。そうした足利氏発展に並行するように光得寺を含む樺崎寺の整備も進められます。そこには全国に散らばる事となった足利氏一門が結束し続けて行くようにと願い、心の拠り所となる「足利氏の霊廟」が建設されたのだと考えています。

【第二代執権:北条義時・政子の時代(~1225年)】

義氏の少年期から青年期にあたるこの時代はまだまだ「戦」の時代であり、義氏は足利の事に気を配る余裕は少なかったように見えます。しかし足利では樺崎寺住持達の手により伽藍の整備が着々と進められ、義兼の没後21年目、翌年に義兼の23回忌を控える年には光得寺が開創されています。一方鎌倉では北条姉弟(義時・政子)が父を追放し、競合氏族を打ち滅ぼし、北条政権を盤石なものとして行きました。そうした中、義氏は外護者でもあった北条姉弟の傍で忠勤を励み、足利氏の地位を北条氏に次ぐ物に押し上げてゆきます。
和暦 西暦 月日 出来事
正治元年 1199年 10月25日 梶原景時の変
建仁三年 1203年 9月2日 比企能員の変
元久二年 1205年 7月10日 畠山重忠の乱 義氏参陣
元久二年 1205年 閏7月 牧氏の変 初代執権・北条時政 失脚
8月 宇都宮頼綱を追討
建暦三年 1213年 5月 和田合戦 義氏参戦
建保三年 1215年 義氏 第3代執権・北条泰時の娘を妻とす
建保五年 1217年 義氏 武蔵守に補任
建保六年 1218年 6月27日 将軍家鶴岡宮に参り給う。前駆に前武蔵守義氏と記される
7月6日 鶴岡宮に御参り。前駆に前武蔵守義氏と記載
建保七年 1219年 正月27日 源実朝暗殺 ※前駆に前武蔵守義氏の名あり
承久元年 1219年 7月13日 左大臣(道家公)の賢息関東に下向。義氏武蔵守と記される
承久二年 1220年 12月1日 若君着袴なり、足利武蔵の前司義氏の名有り
義氏 光得寺開創
承久三年 1221年 5月1日 承久の乱 (承久記)武蔵の前司義氏の名前
5月25日 吾妻鏡 東海道の大将軍(従軍十万余騎)武蔵の前司義氏の名前
6月5日 尾張の国一宮の辺に着す。武蔵の前司義氏の名前
5月13日 武蔵の前司義氏・駿河の次郎泰村武州に相触れず、宇治橋の辺に向かい合戦を始む。
承久四年 1222年 1月1日 先ず御剱(錦の袋に入る)を進せらる。足利武蔵の前司義氏これを持参す。
1月2日 椀飯(足利前の武州これを進す)
貞応三年 1224年 6月10日 足利陸奥の守御扇を若君の御方に進す。(義氏在京)
6月13日 北条義時 逝去
6月26日 陸奥守義氏下着す
6月28日 伊賀氏の変
9月9日 陸奥の守義氏新恩に浴す。美作の国新野保以下数箇所
嘉禄元年 1225年 6月10日 大江広元 没す
7月11日 頼朝御台所・北条政子 逝去
12月29日 若君の御方(御年八)御首服。陸奥の守義氏以下侍の座に着かる

【第三代執権:北条泰時の時代(1225年~1242年)】

鎌倉時代の中で最も安定して平和を謳歌した時代です。この時代に足利も開発されてゆきます。この期間を通して義氏の庶長子である足利五郎(吉良長氏)の名が吾妻鏡に頻出します。義氏の片腕として活動し恐らく義氏と交代しながら鎌倉に詰めていた様子がうかがえます。吉良長氏の子孫は三河に土着し、今川氏を生み、足利尊氏の天下取りにおいて重要な役割を果たします。
和暦 西暦 月日 出来事
安貞二年 1228年 7月23日 将軍家駿河の前司義村の田村山庄に渡御す。随兵中に足利五郎(吉良長氏
10月15日 将軍供奉人中に足利五郎長氏(吉良長氏
安貞三年 1229年 9月17日 将軍家海辺御遊覧。射手の中に足利五郎長氏(吉良長氏
10月22日 将軍家由比浦に出でし、流鏑馬有り。足利五郎長氏(吉良長氏)の名
12月10日 近国一宮に奉幣の御使を立てらる。上総の国は足利五郎長氏(吉良長氏
寛喜三年 1231年 2月11日 足利左馬頭の若宮馬場の本宿所失火焼亡
天福二年 1234年 1月16日 鑁阿寺大御堂創建 (棟札写しより) 天福弐年甲子正月十六日      大行事法橋上人位権律師重弘 奉做起方五間大日如来大殿壱宇   大檀那従五位上左馬頭源義氏
文暦二年 1235年 6月29日 新造の御堂の安鎮を行わる。先陣の随兵に足利五郎長氏(吉良長氏
嘉禎二年 1236年 1月23日 足利左馬頭また椀飯等を献らると
8月4日 将軍家若宮大路新造の御所に御移徙なり。御後五位六位に足利五郎(吉良長氏)の名
8月9日 御行始めの儀。随兵に足利五郎(吉良長氏)の名
嘉禎三年 1237年 4月19日 還御の次いでを以て、左馬頭義氏朝臣の家に入御す。御調度 足利五郎(吉良長氏
嘉禎四年 1238年 10月18日 左馬頭義氏朝臣の亭に入御す。
不明 義氏、北条政子十三回忌にあたり高野山金剛三昧院内大仏殿寄進(美作国大原保を寄進)し運慶作丈六の大日如来像を納める
延應二年 1240年 1月19日 彗星奎中に入り、変異の御祈りを行う。 左馬頭義氏、朝臣の沙汰なり。
1月23日 足利左典厩等至り訪わしめ給う(典厩:左馬頭の唐名)
仁治元年 1240年 7月26日 御先達は一乗房阿闍梨と。夜に入り由比浦に於いて風伯祭を行わると。左馬頭義氏朝臣の沙汰なり。
仁治二年 1241年 1月2日 椀飯、左馬頭義氏朝臣沙汰。御劔は宮内少輔泰氏、一の御馬 足利五郎(吉良長氏
2月 鑁阿寺所蔵義氏下し文有り、関連する最古の文書。足利御庄公文所宛に堀内大御堂での仏事、催事について詳細に指示。
仁治三年 1242年 6月15日 北条泰時 逝去 ※ この年吾妻鏡記載なし
不明 義氏出家・法名正義

樺崎寺住持と伽藍の整備

三代執権・北条泰時の時代は世情がとても安定し、吾妻鏡の記載には義氏の子供世代の名も数多く登場し鎌倉時代の足利氏が一番華やかに活動した時代です。義氏も鎌倉を不在にできる様子が伺えます。この時期の樺崎寺住持は四代重弘僧都でした。重弘の父・野田朝季は「和田合戦」において和田義盛により窮地に陥った主・義氏を守り命を落とした義氏の恩人です(野田朝季の本姓は藤原氏で熱田大宮司家に属しますが尊卑分脈にはなぜか重弘の名は記されていません)。その熱田大宮司家と足利家の縁は深く朝季の叔母が(血縁上)義氏の祖母であるので、重弘と義氏は「はとこ(又従兄弟)」の関係と成ります。義氏が恩人である朝季の遺児・重弘を樺崎寺三代住持・重禅に預け後の道を用意したと考えて良いでしょう。 重弘は樺崎寺に父・朝季供養の為に多宝塔を創建しており、後に鑁阿寺大御堂創建の棟札にもその名が記され、竹内地蔵堂に祀られた地蔵像は重弘等身と伝わります。また重弘の一族である熱田大宮司家と樺崎寺の関りは一切経蔵においても深く、経蔵に納められた一切経は重弘の祖父・清季の兄弟・寛典(義兼の叔父)により納められたと伝わります。以下にそうした樺崎寺住持と伽藍の創建についてまとめます。 ● 樺崎寺の伽藍
当主 住持 伽藍 詳細
義兼 理真上人 祈願所 義兼の奥州合戦での戦勝祈願を願い樺崎を寄進する。
法界寺 鑁阿寺古縁起と別縁起において記載が異なる。※1 また両縁起内で法界寺創建の記載が無いが、別縁起には「法界寺下御堂今樺崎地蔵堂」とある
義氏 法圓房隆験 (建久七年~) 赤御堂 義兼入定の地・現在の樺崎八幡宮社殿と推定されている。
一切経蔵 四代・重弘の祖父・清季の兄弟・寛典(義兼の叔父)により一切経が納められる。※ 法圓房隆験の廟所とも伝わる
證明房重禅 (建仁二年~)
重弘 (嘉禄二年~) 多宝塔 重弘の父・野田朝季(鷹司禅門)供養の為に多宝塔を創建
不明 竹内地蔵堂 創建年代不明であるが、重弘等身像を供養する事から重弘示寂後の創建と考える ※ この地蔵尊が後に菅田岡崎山に移され2020年現在修復中の黒地蔵と伝わる。
貞氏 源助法印 八代目 寶憧院下御堂 弘安十年(1287年)に焼失した堀内(鑁阿寺)大御堂を正安元年(1299年)に再建する。足利氏四代・泰氏御願とされる「寶憧院下御堂」を堀内(鑁阿寺)地蔵堂を移築して造立する。源助法印は義氏の子との伝承あり。※2

※1鑁阿寺古縁起には「下御堂號法界寺」と「下御堂が法界寺である」事が記され、兄弟二人の御骨を奉納し、兩人孝養(供養)の為に三尺皆金大日如来像を彫刻とあり、付記に「犀皮鎧を以て奉造之」と記されます。一方で別縁起では堂宇を「法界寺下御堂」と「法界寺の下御堂である」ように記載が変わり更に「女子三人が同月早世し悲歎のあまり犀皮鎧を賣(売って)大日尊を彫刻した」と被葬者の記述も異なります。また大日如来像の寸法は記されず「三尺七寸の厨子に入れ」と収容した厨子の寸法のみを記すようになります。 別縁起の記述に関しては法界寺下御堂に納めた大日尊と厨子に入れられた三十七尊(大日如来を含む)は別であるとの指摘もあり、両縁起ともに説明が曖昧であるため大日如来像(光得寺像・真如苑像)が二体存在したと云う確証は得られていません。

※2:この記述は鑁阿寺縁起の内最も古い「古縁起」に記され、最も新しいとされる別縁起では割愛されている文章です。 (原文)「下御堂 號法界寺、彼堂仏壇下奉納…(省略)…奉安賽形御厨子、…(省略)…彼御堂正安元年巳亥令焼失、寶憧院下御堂、法界寺代故法印御房源助 左馬頭法印、理真上人八代、造立之、彼堂根本堀内地蔵堂也、然樺崎移之、少輔入道殿御願、号平石殿、又智光寺殿、院号寶憧院打額、伊忠卿筆跡、今御影堂也

この一文は青文字の範囲と緑文字の範囲で別の文章になります。青文字の箇所は『法界寺と号した下御堂は正安元年に焼失した』で終わり、緑文字は『故・法印房源助が足利泰氏御願により寶憧院下御堂を建立した。元は鑁阿寺の地蔵堂である。今は御影堂と呼ばれる』となります。 下御堂(號法界寺)が焼失した「正安元年(1299年)」は樺崎寺住持・法印房源助が鑁阿寺大御堂の再建を為した年でもあります。鑁阿寺大御堂は弘安十年(1287年)に被災し、足利頼氏御願として正応五年(1292年)再建が始まり七年に渡る工事の末この年完成しました。これは樺崎寺の住持・法印房源助の下で鑁阿寺大御堂再建が行われたと言う貴重な記録です。鑁阿寺が樺崎寺に管理されていた証左と言えます。

その他詳細不明の樺崎寺の伽藍

樺崎寺の伽藍の多くは今尚詳細は不明です。情報は「鑁阿寺縁起」の記述による物ですが、記録が混乱している事で推測が困難になっています。以下に確認できるその他の伽藍の名前と概要をまとめてみました。
名称 概要 その後
下御堂 號・法界寺 義兼が親族(又は子供)の供養の為に創建する。 三尺皆金色金剛界大日如来像彫刻 正安元年(1299年)焼失
瓊光堂 不明 承元二年(1208年)焼失
寶憧院 永享年間に御影堂となる 宝徳元年(1449年)焼失
寶憧院下御堂 元・堀内(鑁阿寺)地蔵堂を 法印房源助が移築・建立 後寶蓮院となり寺務御坊が住まうか 明治初年の法界寺か?
樺崎上人堂 赤御堂(=樺崎八幡宮) 樺崎八幡宮社殿
源嘯堂 八角であったと云う。 中絶之無(途絶えていない) 宮殿義兼公廟と云う 義兼の供養遺跡か? 供養塔覆屋跡か
竹内地蔵堂 樺崎地蔵堂か 本尊は岡崎山地蔵堂へ移されたか? 不明 鑁阿寺十二坊図に 地蔵堂の名あり
萬歳寺 義康の菩提寺と同名前 菅東山稲荷神社に存じたか 不明

【第五代執権:北条時頼の時代(1242年~1255年)】

北条氏が権勢を強める中、足利氏にも危機が生じますが義氏と孫の家氏により危機を乗り越えて行きますが、足利氏の勢力は次第に弱体化してゆきます。足利氏は泰氏が四代目当主なり、その庶長子である足利家氏が活躍してゆきます。なお家氏は当初「三郎」を名乗っておりますが、この「三郎」は義兼以来の家督の名で在り家氏が当初は嫡子とされていたと分かります。しかし四代目泰氏の突然の無断出家により家督は北条氏を母とする頼氏となり以降家氏は「太郎」と名を改めます。
和暦 西暦 月日 出来事
仁治四年 1243年 1月1日 椀飯(足利左馬入道沙汰)
1月9日 足利大夫判官(足利家氏)の亀谷亭向頬の人家等焼亡す
1月19日 将軍家鶴岡八幡宮に御参り。足利大夫判官(足利家氏
7月17日 御共結番の事 足利大夫判官(足利家氏
寛元二年 1244年 3月30日 足利丹後の前司 若君のお見舞い
4月21日 将軍家の若君御元服 御劔 前丹後守泰氏の名
6月13日 吉書始めの儀 五位六位に宮内少輔泰氏
8月15日 鶴岡八幡宮の放生会 御後五位六位に宮内少輔泰氏
寛元三年 1245年 8月15日 鶴岡八幡宮の放生会。御後五位に宮内少輔泰氏、 足利次郎兼氏(渋川義顕)、後陣の随兵に足利三郎家氏(足利家氏
寛元四年 1246年 閏4月1日 第三代執権・北条経時 逝去
閏4月 宮騒動
8月15日 鶴岡の放生会。足利次郎兼氏(渋川義顕
寛元五年 1247年 3月2日 足利宮内少輔泰氏の室卒去す。
宝治元年 6月5日 宝治合戦
7月14日 足利左馬頭正義今度の合戦の賞に依って、上総介秀胤の遺跡を拝領
宝治二年 1248年 1月1日 椀飯 三の御馬 足利三郎足利家氏) 同次郎(渋川義顕
4月20日 三嶋の御納受に備えんが為 射手の内、足利三郎足利家氏
閏12月10日 将軍家御方違えの為足利左馬頭入道正義の大倉亭に入御
閏12月11日 還御の刻に及び、亭主御引出物を進す。御劔(長幅輪)宮内少輔泰氏、一の御馬(黒並びに蒔絵鞍、糸鞦)足利三郎足利家氏)、同次郎(渋川義顕
閏12月28日 今日足利左馬頭入道正義と結城上野入道日阿と書札の礼を相論する
建長元年 1249年 足利に正義山法楽寺を創建
建長ニ年 1250年 1月2日 椀飯(足利左馬頭入道沙汰)御調度は宮内少輔泰氏、五の御馬 足利太郎家氏、同次郎兼氏(渋川義顕
3月1日 閑院殿造営の雑掌 小御所、足利左馬頭入道
8月15日 鶴岡の放生会。先陣の内、足利三郎家氏
8月18日 将軍家逍遙の為由比浦に出でし。先行十騎に足利三郎足利家氏
12月27日 近習結番の事治定す。四番の内に足利三郎足利家氏
建長三年 1251年 1月1日 椀飯、将軍家の御方。宮内少輔泰氏の名
1月3日 椀飯、左馬頭入道正義沙汰。一の御馬 足利三郎家氏、同次郎顕氏(渋川義顕
1月11日 将軍家鶴岡八幡宮に御参り。御後の供奉人に足利三郎足利家氏
1月20日 相州の御第に於いて放光仏像を供養せらる。将軍家二所御進発。御後に足利三郎足利家氏
3月8日 鑁阿寺文書:泰氏置文あり。「智光寺殿御判書」とあり、宛名先が鑁阿寺供僧中となっている。しかし出家以前の日付に法名を記すなど疑問が呈されています。 鑁阿寺の名が確認できる最古の文書とされます。
8月15日 今日鶴岡八幡宮の放生会。先陣に足利三郎家氏、御後に宮内少輔泰氏
12月2日 宮内少輔泰氏朝臣、所領下総の国垣生庄に於いて、潛かに出家
12月7日 宮内少輔泰氏自ら出家の過を申す。所領下総の国垣生庄を召される。
建長四年 1252年 4月1日 三品親王関東御下向。御迎え随兵の内、足利次郎顕氏(渋川義顕)、狩装束に足利太郎家氏
4月3日 椀飯(足利左馬頭入道正義これを沙汰)御格子番に足利次郎顕氏(渋川義顕
4月14日 将軍家始めて鶴岡の八幡宮に御参り。随兵に足利太郎家氏
7月8日 将軍家御方違え。随兵に足利太郎家氏
8月1日 親王家征夷大将軍、鶴岡八幡宮に御拝賀。随兵に足利太郎家氏
11月11日 将軍家新御所の御移徙。随兵に足利太郎家氏
11月20日 奥州の亭に入御。御劔役に足利太郎家氏
12月17日 将軍家鶴岡八幡宮に御参り。随兵の先陣に足利次郎顕氏(渋川義顕)後ろに足利太郎家氏
建長五年 1253年 1月2日 椀飯(入道左馬頭義氏朝臣沙汰)四の御馬 足利太郎家氏 同次郎兼氏
1月3日 将軍家御行始め。御劔役に足利太郎家氏
1月16日 鶴岡八幡宮に御参有。御車後ろに足利太郎家氏
8月15日 鶴岡の放生会。先陣の随兵に足利次郎顕氏(渋川義顕)、御後に中務権大輔家氏(足利家氏
建長六年 1254年 1月1日 椀飯 中務権大輔家氏(足利家氏)御劔を持参、供奉人に足利上総三郎満氏(足利五郎長氏の子・吉良満氏
1月2日 椀飯 左馬頭入道沙汰 一の御馬 上総三郎満氏(吉良満氏
1月22日 将軍家鶴岡八幡宮に御参り。御後に中務権大輔家氏(足利家氏)、足利次郎兼氏
8月15日 鶴岡放生会。御後に中務権大輔家氏(足利家氏
11月21日 入道正四位下行左馬の頭源朝臣義氏(法名正義)卒す

樺崎八幡宮の寶物と光得寺

『下野神社沿革誌』に記される樺崎八幡宮所蔵の寶物にも光得寺の名前が記されます。

征矢之根二本:爲朝より奉納。長二尺四寸。
鶉籠:源義兼所持
南蛮鐡星甲:義氏の奉納。
伽羅枕:義兼回國の時所持
神鏡:元録九年三月八日木連川石兵尉督源氏春奉納裡と鋳刻
記録書一巻:吉良上野介長氏の書
神糸圖ー巻:斎藤圖書官従四位朝臣氏義奉納
色紙二枚:久我内大臣通誠公書
楠の丸彫笈義兼回國の時建久六年三月十三日奈良東大寺に於出家となる際後鳥羽天皇より賜はりし大日如來の像を入脊負て神佛を拜禮せしせしと維新の際神佛分離の時管田村光徳寺へ移す。
厨子二箇:八幡太郎義家の像なり但雲慶の作にして地頭堀欽太郎より奉納今光徳寺にあり
棟札二枚:承和五年(838年)九月二十九日、康平六年(1063年)八月十五日

ここに記述される宝物の内、「楠の丸彫笈」と「厨子二箇」が「光寺(本文中では光寺と誤記)」に移されたと記されます。その「楠の丸彫笈」は「大日如來の像を運んだ入れ物」と説明され収納されていたとは読めない事から、運ばれた大日如来像は下御堂の本尊として安置されていたと理解できます。現・真如苑像が納められていた厨子であったと思われます。真如苑像の厨子は未発見とされています。また「厨子二箇」には「雲慶」作の「八幡太郎義家の像」(「雲慶」は「運慶」と同一人物を指すと言われます)が納められ光得寺に移されたと記されますが、これについての記録・伝承は光得寺には有りません。『下野神社沿革誌』の「光得寺に移した」とする記載については、光得寺を「光寺」と誤記している点から、実際に見聞して記されたとは考えられず、風聞・伝聞を元に記したと思われます。

明治初年の樺崎八幡宮と光得寺

慶応四年(=明治元年)4月の太政官布告および明治3年1月3日「大教宣布」などを拡大解釈し民間に広まった仏教排斥運動「廃仏毀釈」により明治三年に樺崎寺(法界寺)は廃寺となりました。その当時の記録をみると現在「樺崎寺跡」とされる場所に次の2つの寺が有ったとされます。

【樺崎寺(法界寺)】
宗派 :真言宗
本寺 :鑁阿寺
管理者:樺崎八幡宮
本尊 :大日如来

【神宮寺】
宗派 :真言宗
本寺 :金蔵院
管理者:(不明)
本尊 :地蔵菩薩(※1

※1 持宝院住職・心海法印の記した『東野足利郡之内四十九院地蔵尊御丈並ニ御詠歌附』【寛保二年(1742年)~宝暦十年(1760年)頃の記録】に「神宮寺本尊」として地蔵尊が記載される。

鑁阿寺別縁起が作成された享保二十一年(1736年)の時点では「的山上人霊堂(=赤御堂=八幡宮社殿)」と「法界寺」を残し、他は無住(住職の居ない寺)で有り、竹内地蔵堂、源嘯堂(六角堂)、的山寶塔(多宝塔)等はほぼ失われたと記されています。するとここに記した2寺院の内「神宮寺」なる寺に該当する建造物が存在しないことになります。

そもそも神宮寺と云う名は神社に付属する寺院に対する一般的な呼称であり寺号では有りません。つまり場所的な事を考慮に入れれば樺崎寺付属寺院である神宮寺である筈です。しかし本寺は金蔵院であり管理者は不明です。仮に管理者を樺崎八幡宮とすれば、樺崎八幡宮神主が光得寺本尊となる阿弥陀如来像を奉納した際に「神宮寺」本尊の地蔵菩薩像もまた岡崎山に移したと考えられるでしょうが、蓋然性は有りますが空想の域を出ていません。