昔、足利の樺崎に長義季と云う人物が居ました。
生まれは相模国(現在の神奈川県)、有力氏族「三浦氏」の当主・三浦義明の五男として誕生しました。三浦氏は元は房総半島に根を下ろした良文流平氏の一族であり、河内源氏には初代源頼信の代に故あって臣従した一族です。義季の父・義明は源義朝・源頼朝の親子二代に仕えており、源義朝の南関東制覇を支え、平治の乱に敗れた後の源頼朝にも変わらず忠義を尽くし、源頼朝挙兵を画策し、頼朝が初戦の「石橋山の戦い」に敗れると頼朝と一族を安房国に逃がすた籠城し討死したと云う源氏の守護神のような人物でした。三浦氏はその後義季の兄・三浦義澄が家督を継ぎ、鎌倉幕府の創設に尽力するも北条氏との政争に敗れ滅亡してしまいます。しかしその血脈は義季を通じて足利に根付き、現在も長家の一族の中に生きています。
長義季の名は国立国会図書館所蔵故実叢書. 尊卑分脈(洞院公定)21ページに三浦義明の子・長五郎の名で記されており、また樺崎寺から引き継がれ代々伝えられたと考えられる光得寺の過去帳「各家門姓」の筆頭にも長元祖・三浦大介平義明ノ五男、長河内守五郎義季の名で記されています。
長姓の一族について詳しく記した本が足利市役所の郷土資料館に収蔵されています。それによれば栃木県は長姓が際立って多い県であり、小山・栃木・佐野・足利と栃木県南部に集中し、多くが桓武平氏由来の『丸に揚羽蝶』の家紋を用いおり、地理的に考えて桓武平氏国香流の一族が西暦939年の平将門の乱の後に下野国(栃木県)南部に移り住み、秀郷流藤原氏と婚姻しながら土着した氏族であろうと推測されています。足利の樺崎八幡宮を源義家と共に創建し、歴代宮司に任じられた長氏も同じ一族の者です。樺崎八幡宮創建当時の長一族もまた田堵・負名と呼ばれた富農の一族が桓武平氏の血筋を受け入れ武士となった一族だったと思われます。
そうした長姓の一族と三浦一族の義季がどのようにして縁を結んだのかは定かでは有りません。その時期を推測するには先ず義季の生年と没年を調べる必要がありますが、残念ながら生年は不詳です。没年については幸い光得寺過去帳から西暦1204年である事が確認できます。義季の没年齢が60~70歳で在ったと仮定すると誕生は1134年~1144年頃では無いかと考えます。兄・三浦義澄が西暦1127年の生まれとあるので概ねこの想定は的を射ているでしょう。父・義明は西暦1092年生まれでしたから42歳~52歳頃の子と云う事になります。義明は享年89歳と当時としては長寿であり、義季も意外と長寿で有ったかも知れません。
では、いつ頃足利の樺崎の「長一族」と知己を得たのでしょうか。最も遅い時期としても『治承寿永の戦い(1180年)』と呼ばれる源頼朝旗揚げの戦いの当時を下る事は無いでしょう。この年代には義季は36歳~46歳になっています。源頼朝旗揚げを画策した三浦義明の命を受け、足利義兼の元に参陣を促す使者として立ち、其の後「長一族」と知己を得て土着したと考えても無理は有りません。この仮説に従うならば、当時義兼の本拠地はやはり樺崎であり、「長一族」がその配下として臣従していたと考えられます。
別の時期を想定すると更に20年ほど遡る西暦1160年の平治の乱の後では無いかとも考えられます。この時代西暦1154年頃誕生と伝わる義兼は6歳くらい、義季は16歳~26歳になっていました。平治の乱に於いて三浦氏は源義朝と共に平家と戦い敗れて後坂東に落ち延びています。平家の追討を覚悟し、義季を足利に預け(実際には源義重に庇護を求め)た可能性は在るかも知れません。そしてより大胆な仮説を良しとするならば、この時三浦氏により都に居た義兼が源義重の庇護下に避難してきたのかも知れません。それは義兼の父・義康が源頼朝の父・源義朝と共に都の鳥羽上皇の元で僚友として活躍しており、坂東においても義康の兄・義重(新田氏の租)が義朝の嫡男・義平に娘を嫁がせ義父と成り共に武蔵の大蔵屋敷で源義賢を討っなど活躍した事などから、義朝・義平親子の相模国と義康・義重兄弟の上野国・下野国南部は良好な同盟関係に有ったからです。
義季について別の記録が残されています。相模国三浦の長井郷を領し長井義季と名乗ったと云う伝承です。現在の横須賀市長井町に長井城という城跡が残されており、観光案内によれば義季もしくは三浦義澄の築城とありました。三浦氏が三浦半島に勢力を扶植させたのが父・義明が三浦介を号した西暦1124年頃とされます。義季は幼い頃を長井の郷で過ごしていたのでは無いでしょうか。
最後に「家紋」について補足します。平氏である長家の家紋は先にも述べた『丸に揚羽蝶』紋ですが、三浦家の家紋は「三浦三つ引両」と呼ばれる異なる家紋です。義季が婚姻により「長」家の家督を相続した事が分かります。現在も足利の”長”姓の皆さんは、この長義季の子孫と言われています。