古河公方・足利成氏 
足利の昔 (8)

1. 享徳の乱の勃発

光得寺過去帳に記される足利家中の者の名は、足利成氏の名を最後に途絶えます。永享12年(1440年)結城合戦で兄・安王丸・春王丸が命を落とす中、京都に護送された成氏は、途中、将軍・足利義教の暗殺事件が発生した事で命を拾います。この足利成氏こそ、或る意味一番「足利」に縁の深い足利家の人で在ったと言えるかも知れません。

■ 5代鎌倉公方・足利成氏

文安4年(1447年)3月、鎌倉府再興を願う上杉一門の嘆願により鎌倉府が再興され、成氏が5代鎌倉公方となり、先にも記した通り、憲実の長男・上杉憲忠が関東管領職に就任しました。ところが成氏は、旧持氏派の結城氏、里見氏、小田氏等を重用し、ついに享徳3年(1455年)12月27日には関東管領・上杉憲忠を暗殺し、「享徳の乱」を引き起こします。

関東管領・上杉氏一党と成氏一党の争いとして始められた「享徳の乱」は、享徳4年(1455年)1月21・22日、「分倍河原の戦い」で口火が切られ、ここで上杉軍は大敗を喫し常陸国小栗城に逃げ込みます。初戦の勝利に勢いを得た成氏軍では、武蔵国、上野国の残敵を駆逐しながら古河へと向かいます。また武田信長里見義実が房総三国に向かい、後に上総国に安房国を攻め取ります。4月上杉房顕が関東管領に就任し上野国平井城に入りました。しかし5月には、小栗城が陥落し、敗残兵が足利に逃げ込み「天命・只木山の陣」を構築します。

■ 天命・只木山の陣

「天命・只木山の陣」は、佐野の天命から足利の只木山(足利市東部・フラワーパーク南)に至る陣。東西交通の要衝であり、南に渡良瀬川、東に秋山川、旗川などの流れる天然の要害とも言える水郷地帯でした。古河・小山方面を勢力下に置いた成氏の西進に備えた陣と言えます。

同年6月12日成氏軍は「天命・只木山の陣」に対峙します。ところがその4日後の6月16日、幕府から派遣された今川範忠が鎌倉を陥落させてしまいました。戻る場所を失った成氏は、古河への遷座を決断し、以後、「古河公方」と呼ばれます。しかし、古河は、2代鎌倉公方・足利氏満の代に獲得した鎌倉府直轄御料所の「太田荘」および「下河辺荘」が在り、また公方親衛隊とも言える「関東八屋形」に名を連ねる国人衆も近傍に在りました。この「古河遷座」は、成氏にとって致命傷ではなく、むしろ直轄御料所と味方に囲まれた地に拠点を構え、戦国時代後期に登場する一円領主同等の強力な体制を構築する契機となったのでした。

同年7月成氏は足利から古河に退き、東上野に出陣させていた岩松勢などの軍勢を足利に向かわせ、「天命・只木山の陣」に当たらせます。上杉軍も急ぎ救援を向かわせています。その後、坂東各地では戦闘が繰り広げられ、房総三国は成氏の勢力下となります。そして12月に「天命・只木山の陣」が陥落し、上杉勢は足利を失陥します。此れを期に足利の国人衆は成氏方に寝返ったと見られ、南氏もその内に在りました。

2. 古河公方・成氏と足利

康正元年(1456年)1月、戦場は群馬県東部に移り、成氏軍として赤堀政綱岩松次郎の名が登場し、2月24日から26日には、群馬県東部の深巣、赤堀、大胡、山上で合戦があり、赤堀時綱が討死します。その後岩松持国を中心に成氏軍が南下し、武蔵国北部(深谷周辺)が戦場となります。

■ 五十子陣

康正2年(1457年)に入ると、上杉軍は五十子陣(現在の埼玉県本庄市近郊)を整え、利根川防衛ラインの要として河越城に太田道心(資清)、江戸城に太田資長(道灌)が入城し成氏軍と対峙し戦線は膠着します。

長禄2年(1458年)5月15日岩松持国が、岩松長純とその家臣横瀬国繁の懐柔工作の結果上杉側に寝返り、長禄3年(1459年)10月14日古河に進軍した上杉軍と成氏軍が激突し「太田庄の戦い」(現在の熊谷市周辺)が行われ、またも上杉軍が敗退します。以降、上杉軍からは離反者もあらわれ、上杉軍不利の状況で戦況は推移します。しかし一方の成氏軍も攻めきれず、全体として一進一退の膠着状態が続きました。

寛正2年(1461年)5月14日、成氏軍において中心となって活躍し、後に上杉側へと寝返っていた岩松持国次郎父子が再び成氏側への寝返りを画策し、岩松家純に謀殺されます。

■ 足利勧農城と長尾景人

寛正6年(1465年)7月武藏太田荘、下野足利荘などで合戦が行われました。戦いの詳細は不明ですが、その後上杉家の家宰職を世襲していた長尾氏一族・長尾景人が足利庄の代官職に任じられ足利に着任した事から、梁田郡及び足利南部の国人層は上杉側に降っていたと考えられます。しかしその一方、後の記録からこの時点の南氏は成氏側に残留していたと見られます。

寛正7年(1466年)2月、関東管領・上杉房顕が五十子陣で病没し、上杉顕定が関東管領職に就任し、同年11月には、長尾景人に足利での築城(勧農城)を命じます。この城跡は、現在渡良瀬川中洲となっている岩井山に残りますが、当時の渡良瀬川本流は現在の矢場川流域で在り、当時は渡良瀬川の分流または支流と考えられる小河川が流れているだけでした。この時上杉憲実が再興した足利学校や、足利尊氏開基と伝わる善徳寺なども現在の場所に移転されました。

■ 足利争奪戦

応仁元年(1467年)、都で「応仁の乱」が勃発し、この戦いは文明9年(1477年)までの11年間に渡り都を戦火に巻き込み続けます。

応仁2年(1468年)10月関東では、成氏が足利奪還のため天命に着陣し、上野国に進みますが綱取原合戦で上杉軍に敗れ桐生へと退いた後、11月には足利の小曽根にに陣を移し、12月には古河に戻ります。

文明元年(1469年)には、成氏側であった岩松持国の次男・成兼を上杉方の岩松家純が追放し、8月岩松家純は、新田金山城竣工させ居城としました。

文明3年(1471年)3月、成氏軍が伊豆に遠征すると、その隙きを突き、上杉顕定に率いられた上杉軍が古河に軍を進め、下野児玉塚(栃木市)に布陣するも佐野氏に離反の動きが出たため、五十子に引き上げます。

4月に入ると今度は成氏軍が足利に進軍し、八幡河原(太田市)や佐貫荘岡山原(大泉町)に布陣しますが、これは上杉軍に押し返されます。その後、上杉軍は下野大窪(足利市)に布陣し、岩松軍も足利・鑁阿寺門前二本杉(足利市)に進み、只木山を越えて佐野天命に布陣しました。

4月15日、上杉軍が足利の八椚城を陥し、更に進んで佐野の赤見城および、足利の樺崎城を攻め落とします。佐野の赤見城の城将の名は「南式部大輔」と伝わり、赤見城は落城し、南式部大輔も討ち取られます。南氏が成氏側に在ったことを伺わせます。樺崎城もまた南氏の守備した城で在ったと思われ、赤見、樺崎こそが源義国が立券した『足利荘』の原型です。

■ 古河城陥落と逆襲

5月23日、上杉軍が館林城・舞木城を攻撃し、更に東の佐野赤塚(栃木市)に陣を移動させました。ここで小山持政が成氏軍から離反し、再び上杉軍が下野児玉塚(栃木市)に布陣します。館林城・舞木城も陥落し、小山氏に続き、成氏方に在った小田氏・佐野氏も上杉軍に寝返り、6月24日、古河城は落城し、成氏は千葉孝胤のもとに逃れました。

こうして上杉軍の大攻勢により下野国南部の国人が上杉軍に切り取られ、本城である古河城をも失い、成氏軍が瓦解するかと思われましたが、翌年(1472年)5月には、早くも成氏は巻き返しを始めます。足利の勧農城が攻め込まれ、長尾景人が討ちとられ足利を失陥すると、再び上杉軍の五十子陣での対峙となりました。

長尾景人の後、長男・長尾定景-弟・長尾房清-長尾景長と足利長尾家は続きます。景人の後継者・定景は病弱で、景人の弟・房清の後見を受けたと伝わります。房清は主家である山内上杉家とは距離を置き、後には長尾景春や扇谷上杉氏・定正と協調路線を取り、それは次の大乱の原因ともなりました。定景と後見人・房清の代には、足利は成氏勢力下に在り、両者が足利に在ったとは考えられませんが、享徳の乱の終盤、房清は上杉氏に叛した長尾景春に同心したとされ、長尾景長もその頃、足利を回復したと見て良いでしょう。

■ 享徳の乱のその後

「享徳の乱」はその後膠着状態の末、上杉氏・家宰である長尾景春が(文明8年(1476年)6月)に叛乱し、文明9年(1477年)正月に五十子陣を陥落させました。状況が益々混沌とする中、太田道灌が神憑りな活躍により成氏と景春双方を屈服させ、文明14年(1483年)11月27日、都鄙合体と呼ばれる和議の成立によって「享徳の乱」を終わらせています。

しかし乱のの終息後間もなく、長享元年(1487年)足利勧農城が攻撃され、両(山内・扇谷)上杉氏同士の闘い「長享の乱」の火蓋が切って落とされました。戦いは永正2年(1505年)まで18年に渡り続けられます。こうして発端となった結城合戦から数えれば65年の間、足利は戦乱の中心に在り、次第にその存在価値を失っていったのでした。

■ 終わりに

樺崎寺と光得寺の歴史には殆ど関わりのない足利のお話でしたが、私達が普段認識する以上に足利が時代の中心に在ったことを感じられれば良いと思っております。