1. 樺崎寺と北郷
光得寺は、過去帳に明治33年(1900年)に開創680年と記され、創建は西暦1220年と見られます。所在地(現在の足利市菅田町)は、源義国の立券した約200町(1.98347平方km。対角線2.8kmを直径とした円の半径1.4km)を「足利荘」推定範囲として、樺崎寺を構成する寺院群のひとつで在ったと考えられています。
樺崎寺は、観応2年(1351年)に「足利丸木郷(名草)」を寄進され、現在の足利で「北郷」と呼ばれる地域が樺崎寺の寺領としました。尊氏の執事で在った南宗継は晩年「丸木郷」に居を構え、その地を「名草」と改め寺の外護者となりました。
丸木郷が寄進された時代は、足利家中が尊氏派と直義派に分かれて争った『観応の擾乱(1350年~1352年)』の只中にあり、坂東では、鎌倉府の両執事(高師冬と上杉憲顕)が争い、直義派の上杉憲顕が上野国に挙兵し、尊氏派の高師冬を甲斐国に追い落とし滅ぼしました。都においてもと高師直が『打出浜の戦い(1351年2月)』に敗れて降伏し、後に一族もろとも暗殺された後の時代です。「丸木郷」の寄進は「高一族の所領処分」の一環として行われたと見られます。しかし間もなく形勢は逆転し、尊氏が「薩埵山の戦い(1351年12月)」に勝利し直義派の敗北が決しました。高一族である南氏は尊氏と共に闘い、戦後、安房国守護となったのと同時に、失っていた足利の所領の多くも取り戻したのでしょう。
■ 武蔵野合戦と国人
『観応の擾乱』は幕府ならびに足利家を弱体化させ、瀕死の南朝勢力を立ち直らせました。坂東では上野国で新田義貞の子・新田義興・義宗兄弟が蜂起し、武蔵国を戦場として尊氏と争う『武蔵野合戦』(1352年閏2月~3月)』が続けられます。
上野国は、『観応の擾乱』と『武蔵野合戦』において、尊氏・北朝側の上杉憲顕と、南朝側にある新田兄弟という相反する者が「挙兵の地」に選んおり、一見矛盾するように思えます。しかし、この時代、血縁など政治権威と異なる要素で私的に結束した「一揆」と呼ばれる武装集団が「武力供給者」として存在していました。「一揆」を構成した者は、時代により荘園領主や、鎌倉幕府御家人、地頭などの様々な権威を身に纏い下地(墾田)を直接支配してきた半農半武の一族で、南北朝頃からそうした氏族を「国人」とも呼ぶようになります。上野国南部には、藤原秀郷を祖とする国人領主らを中心に「白旗一揆」と呼ばれる集団が存在し、武蔵国西部及び北部にも、桓武平氏の血筋に連なる国人領主等による「武蔵平一揆」が存在しました。総称として「国人一揆」とも呼ばれます。『観応の擾乱』では上杉憲顕に従い、『武蔵野合戦』では新田義興・義宗兄弟に従った一揆は「白旗一揆」で在ったと言われます。
私的組織で有る「一揆」には、既存権威との間に主従関係は存在せず、権威に依存する事のない戦力供給組織である「一揆」は、政治的一貫性を示す必要の無い組織でした。ゆえに『観応の擾乱』では北朝・足利家・上杉憲顕に従い、『武蔵野合戦』では南朝・新田兄弟に従う選択をします。しかし戦乱期においこそ「国人一揆」は重宝されますが、同時にそれは戦乱を長引かせる要因にもなりました。更に国人同士が”力”による「淘汰」を繰り返し、集権的大規模組織に成長する事を阻む事にもなります。戦国時代、坂東が周辺強国の単なる草刈場と化した所以です。
■ 足利の国人
『武蔵野合戦』で尊氏は一時的に鎌倉を失陥しながら、安房国守護・南宗継や、仁木頼章、宇都宮氏綱などの活躍により勝利を収めます。当時の足利にも「桓武平氏」「藤姓足利氏」「源姓足利氏」「高階氏」の血を引く国人層の者が数多く居り、様々な戦いに動員されたと考えられます。
足利の国人としては、桓武平氏の「長氏」が樺崎、藤姓足利氏・佐野一門の「阿曽沼氏」は菅田、源姓足利氏の「仁木氏」、高階氏は「高(こう)氏」は梁田郡内に、「南氏」は丸木郷(名草)に勢力を扶植させていました。
2. 光得寺過去帳の鎌倉公方
現在の光得寺は、江戸時代始めに発布された「諸宗寺院法度」に基づき施行された「本末制度」、ならびに「寺請制度」により、檀家を有する臨濟宗妙心寺派寺院として、元文5年(1740年)正月9日、本山・妙心寺より当地に下られた「九世中興霊室慧苗和尚」が住職として整えました。「光得寺過去帳」には、慧苗和尚が住職する前、八代に渡る住職の名が記されますが、住職された年代は不詳です。慧苗和尚が本山・妙心寺より住職された事を踏まえれば、それ以前の寺は、暫く無住の状態に在ったと見られます。光得寺は先にも述べた通り「樺崎寺を構成する寺院群のひとつ」であり、樺崎寺と開山・開基の名は元より、樺崎寺が足利家歴代として供養した者の名も残されます。これは足利氏の宗廟である樺崎寺が「誰」を足利家一門と認識して居たかを知る上で重要な情報となります。偏に慧苗和尚の功績によるものと言えるでしょう。
■ 光得寺過去帳に見られる足利家一門
光得寺過去帳に足利家歴代の名を認めた箇所が在りますが、其処には一定の偏りが見られます。開基・足利義氏に始まる被供養者の名は次の通り続きます。
足利泰氏-足利家時-足利頼氏-足利尊氏-南宗継-足利基氏-足利氏満-足利義満-足利満兼-高師直-足利持氏-足利成氏
鎌倉時代の足利家当主の内、尊氏の父・足利貞氏の名を確認出来ませんが、貞氏逝去の年は、後醍醐の叛乱により足利家中も混乱していたと考えられます。現在、光得寺境内に移されて保管されている「樺崎寺供養塔」内には、「足利貞氏の供養塔」と推測される石塔が在る事から、これは手続き的な欠落と見ています。しかしその後の室町将軍としては、足利尊氏の名は確認されるものの他の将軍の名は記されていません。一方同時代に鎌倉公で在った足利氏歴代は漏れなく記されています。また、一族では無いものの南宗継、高師直の名も足利家の欄に記されます。そして特筆すべきは上杉氏と争った末に鎌倉から古河に遷座した足利成氏の名までもが残される点です。南宗継が外護者となった年代以降、鎌倉府の足利家を尊重している点から、樺崎寺(光得寺)は、鎌倉府の庇護下に置かれていたと考えられます。そこで樺崎寺(光得寺)を庇護した鎌倉府・鎌倉公方について見てゆきます。
■ 初代鎌倉公方・足利基氏
延文3年(1358年)4月30日、足利尊氏が没すると、鎌倉公方・足利基氏は貞治2年(1362年)、関東管領の職に在った畠山国清を罷免し討伐します。更に基氏は尊氏が追放した上杉憲顕を越後守護に再任すると関東管領として鎌倉に召喚しました。憲顕は、越後国から鎌倉に向かう途上、宇都宮氏綱の家臣・芳賀禅可に襲撃されますが、これを撃破します。宇都宮氏綱は、「観応の擾乱」の後、上杉憲顕に代わり上野・越後両国守護に任じられ、芳賀禅可を守護代として両国を治めていました。鎌倉公方・基氏は、芳賀禅可の行為を口実に宇都宮氏綱を討伐(小山義政の仲介で和議が成立)します。こうして畠山国清及び宇都宮氏綱が失脚した事で尊氏の確立した薩埵山体制は解体され、上杉憲顕が正式に上野・越後両国の守護に復帰します。以降、「足利」は鎌倉府の保護の下、関東管領・上杉氏の管轄下となります。基氏は明らかに尊氏の遺命に背いたのでした。
■ 2代鎌倉公方・足利氏満
貞治6年(1367年)4月26日、基氏は若くして他界し、2代鎌倉公方・足利氏満が2代鎌倉公方に就きますが、氏満はまだ幼く、引き続き上杉憲顕が関東管領として支えてゆきます。そこに貞治7年(1368年)1月、「武蔵平一揆の乱」が勃発しました。「武蔵平一揆」とは、先にも述べた通り桓武平氏に属する武蔵の「国人衆」が連帯して形成された私的武装集団です。「武蔵平一揆」は足利尊氏下、高師直に協力し「四條畷の戦い」や、畠山国清による「南朝残党討伐」などに動員されましたが、上杉憲顕は関東管領として積極的に平一揆の勢力削減を進めていました。「武蔵平一揆」に属する国人領主は、上杉憲顕により滅ぼされた畠山国清の与党でもあり、「武蔵平一揆」上杉氏にとって粛清対象だったと言えます。その後6月頃には、幕府を味方に付けた上杉憲顕により乱は鎮圧されますが、憲顕は同調して蠢動し始めた「南朝残党勢力」の掃討に忙殺され、9月19日、足利の陣所において病を得て没します。
▼ 上杉憲春の諫死
憲顕以降、関東管領の職は上杉氏の世襲となり、憲顕-能憲|朝房-憲春と続きます。上杉憲春の代、康暦元年(1367年)に「康暦の政変」が勃発し、中央進出を意図する2代鎌倉公方・氏満は上洛を画策します。関東管領の職に在った憲春は、3月8日、腹を切って氏満を諌めました。氏満は憲春の諫死により挙兵を諦め3代将軍・足利義満に謝罪します。
▼ 小山氏の乱と上杉憲方
憲春の跡を継ぎ関東管領となった上杉憲方の代、康暦2年(1380年)に小山義政が挙兵し、5月16日に宇都宮基綱と戦い、基綱を打ち取ります。「小山氏の乱」です。氏満は兵を率いて討伐に向かいますが、9月、足利まで兵を進めた所で、首謀者・小山義政から恭順の意が伝えられ、一旦は兵を下げます。しかし義政が再び叛意を示した事で、氏満は将軍・足利義満から「小山義政追討の御教書」を得た上で永徳元年(1381年)4月、再び足利に兵を進めました。12月8日、義政と嫡子・若犬丸が鷲城を開城し降伏するも、永徳2年(1382年)3月22日三度反旗を翻し、4月13日に自害して果てます。戦後氏満は、小山義政、宇都宮基綱という両下野国守護家の没落により空いた下野国守護の座を木戸法季に委ねます。この時木戸法季は、一時的とは言うものの守護所を「足利」に移しています。
至徳3年(1386年)5月、義政の嫡子・若犬丸が挙兵し、祇園城を占領します。氏満の出陣により7月12日には祇園城が陥落しますが、若犬丸は再び行方不明となりました。木戸法季は下野国守護を更迭され、結城基光が守護となります。鑁阿寺文書に拠れば、足利氏満が同年10月7日に足利家宗廟(鑁阿寺+樺崎寺)に対し武蔵国比企郡戸守郷を寄進したと在ります。
▼ 関東八屋形
氏満は、元中4年(1387年)7月19日、若犬丸を匿う小田氏の居城に兵を向かわせ、元中5年(1388年)5月18日に小田氏は降伏するも若犬丸には逃げられます。若犬丸はその後も度々姿を現して氏満を翻弄しますが応永4年(1397年)1月15日に追い詰められて自害し、その遺児達も捕らえられ殺され小山氏嫡流の血筋は途絶えます。氏満は、下野国守護に任じた結城基光の次男・泰朝に小山氏家督を継承させる一方、小山氏の所領で在った太田荘および下河辺荘を直轄の御料所に編入し、結城氏、小山氏を始めとしする下野国、常陸国の氏族八家を「関東八屋形」として鎌倉公方の親衛隊とも呼べる組織を構築します。後日、鎌倉公方・成氏が古河に遷座し「古河公方」を名乗りますが、それを支える事となる一党です。
上杉憲方は明徳3年(1392年)4月22日に管領職を辞し、長子・上杉憲孝に管領職を譲り、応永元年(1394年)10月24日に没しまします。しかし間もなく上杉憲孝も病を得て、同年11月に管領職を辞して後没します。その後、氏満の信任厚い犬懸上杉家の上杉朝宗が管領に就任します。氏満は、応永5年(1398年)11月4日に没しています。
■ 3代鎌倉公方・足利満兼
3代鎌倉公方となった足利満兼は、関東管領・上杉朝宗の補佐を受けますが、応永6年(1399年)10月に勃発した「応永の乱」に際し、大内義弘に呼応して挙兵し上洛を企てますが、上杉朝宗(並びに上杉憲定)の反対に躊躇う内、大内義弘の敗報に接して兵を引ます。鑁阿寺文書には、応永12年(1405年)8月23日に、満兼が足利氏宗廟の諸堂修復を行った記録が残ります。上杉朝宗は、応永12年(1405年)9月、関東管領を辞任し、上杉憲定が後任となります。足利満兼は、応永16年(1409年)7月22日に死去します。
■ 4代鎌倉公方・足利持氏
4代鎌倉公方となった足利持氏は、関東管領・上杉憲定の補佐を受けますが、応永17年(1410年)8月、足利氏満の三男・足利満隆謀反の風説が流れ、その責を問われ憲定が辞任に追い込まれます。応永18年(1411年)、管領職に上杉氏憲(禅秀)が就任しますが、次第に持氏との対立を深め応永22年(1415年)に関東管領を辞任します。持氏は管領職の後任に氏憲と対立していた上杉憲基を就任させました。
この人事に憤慨した氏憲(禅秀)は足利満隆や、持氏の弟・持仲と共謀して叛乱を引き起こします。「上杉禅秀の乱」と呼ばれたこの戦いに常陸国真壁郡小栗の領主・小栗満重も加担します。氏憲(禅秀)は持氏を取り逃がしながらも一時的に鎌倉を制圧しますが、幕命により討伐に下った今川範政等に敗退し、応永24年(1417年)1月10日、一党が鎌倉雪ノ下で自害し事態は収束しました。この乱には氏憲(禅秀)の娘婿で在った新田荘領主・岩松満純も加担し斬首されています。満純の遺児・家純は出家するも後に将軍足利義教に後援され復帰し、岩松家中の混乱の原因となります。乱の結果「足利」は幕府直轄地に改められ、幕府代官が派遣され治める事になります。
応永25年(1418年)、上杉憲基が没し、越後国守護・上杉房方の三男・上杉憲実が鎌倉に向かい、応永26年(1419年)に当時10歳と云う年齢で関東管領に就任したと伝わります。
▼ 上杉憲実
応永29年(1422年)、小栗満重が宇都宮持綱・桃井宣義・佐々木基清らと共謀し「小栗満重の乱」を引き起こします。応永30年(1423年)8月、持氏は小栗城を攻め落とし満重を自刃に追い込み、更に共謀した宇都宮持綱を追討して一族の塩谷教綱に殺害させ、幕府に近い佐竹氏をも討伐しました。そして同年、持氏は足利の幕府代官・神保慶久を追放し足利を押領してしまいます。
応永35年(1428年)1月、4代将軍・足利義持が逝去しました。義持は足利義量を5代将軍に任じて引退しますが、義量が急逝したことで将軍職に復帰し後継者を決めずに他界してしまいました。持氏は自ら将軍となるべく兵を率いて上洛を企てますが、上杉憲実に押し止められます。
鑁阿寺文書には、正長元年(1428年)10月7日持氏が名草郷の内3分の1を寄進と記されており、更に、同四年3月17日上州橋本郷寄付と続きますが、正長は2年で改元されており正長4年(1431年)は存在していません。これは自らが将軍になれなかった持氏が幕府による改元を無視し、正長年号を使用し続けた結果でした。永享3年(1431年)、上杉憲実は持氏が幕府の改元を無視した件の謝罪使節を幕府に派遣し、翌永享4年(1432年)に、鎌倉府が横領していた足利などの幕府所領を返還しています。憲実は、一貫して鎌倉府と幕府との調停に努めましたが、持氏との関係は次第に悪化してゆきました。
▼ 永享の乱
永享8年(1436年)、持氏は信濃国の村上頼清を支援する為出兵を企みましたが、上杉憲実の反対により出兵を中止します。しかしその翌年(永享9年(1437年))再び出兵が触れられますが、これは憲実討伐の為と噂され、持氏と憲実の間に緊張が生まれました。そして永享10年(1438年)、再び憲実暗殺の風説が流れると、憲実は身を守るため上野国平井城に出奔する事態となり「永享の乱」が始まります。8月持氏は「憲実討伐」の為一色氏を派し自らも出陣します。憲実は幕府の支援を受け、10月「武蔵分倍河原」において一色軍を破ります。その後、上杉家家宰・長尾忠政に率いられた軍勢に鎌倉軍は撃破され、持氏は出家して永安寺に入りました。憲実は持氏の助命を再三幕府に願い出ましたが受け入れられず、永享11年(1439年)、憲実の攻撃により、永安寺の持氏と義久は自害します。
▼ 憲実と足利学校
上杉憲実は文武両立の名将であり、金沢文庫や足利学校の再興に尽力しました。一般に足利学校は小野篁の創設した「国学」を憲実が再興したと説明されますが、それは空虚な仮説です。永享4年(1432年)、憲実が足利学校に鎌倉円覚寺の僧快元を能化(校長)に招き、多くの書籍を寄贈し再興した事が足利学校の始まりです。
憲実がこの時寄贈したと思われる書籍に金沢文庫の蔵書印が確認されるものがあり、一部の寄贈書は金沢文庫の蔵書であったと考えられています。また後(1560年)に足利学校の庇護者となった北条氏政もまた、金沢文庫から六経(五経)の宋版書籍を移したとされます。尚、足利市のホームページでは、憲実が漢籍を移し学校を再興した年を永享11年(1439年)とされます。先の永享4年は、憲実が足利を幕府に返還し、幕府代官を足利に迎えた年です。また永享11年は、「永享の乱」の終わり、憲実が持氏を永安寺に追い込んだ年です。憲実は幕府からの「持氏殺害」命令に従わず、繰り返し「助命嘆願」を申し入る余り、幕府に裏切りを疑われ、自らの身辺を整理したと伝わります。憲実は身辺整理として自ら所有する五経疏本・孔子図などの書籍や絵画を足利学校に寄進します。何れの年も足利学校には重要な年であり、何れを創建年と定めるかは困難でしょう。
憲実が再興した足利学校は、当時は現在と異なり、足利市伊勢南町近傍に有り、応仁元年(1467)に山内上杉氏・家宰の家柄に在った長尾景人が勧農城築城に際し、現在地(足利市昌平町)に学校を移転させました。足利学校は、北条氏政の庇護下で最盛期を迎え、フランシスコ・ザビエルが世界に紹介した学校はその当時のものです。
「永享の乱」の後、憲実は後事を弟・上杉清方に託して出家します。しかし永享12年(1440年)、結城氏朝が持氏の遺児春王丸、安王丸を擁して挙兵し、「結城合戦」が勃発すると幕府は憲実に管領復帰を命じ、憲実は已む無く復帰するも戦後再び隠遁してしまいます。
嘉吉元年(1441年)、「嘉吉の乱」で将軍・足利義教が暗殺されると、幕府はまたしても憲実に関東管領復帰を命じますが、憲実はこれを拒み、次男・房顕を除く子供達までも出家させてしまいます。しかし憲実の意に反し文安4年(1447年)に長男・憲忠が関東管領に就任してしまいます。怒った憲実は憲忠を義絶(絶縁)しますが、後に憲実が案じた通り憲忠は悲劇に見舞われる事になります。
■ 『足利』の終わり
上杉憲実により、鎌倉府は事実上滅びました。この先も足利氏、足利幕府、そして復活する鎌倉府の歴史は続いてゆきますが、事あるごとに樺崎寺に所領を寄進し、一族安寧を願った平和な時代は姿をけします。この先の足利は戦場となり、歴史の悲哀を刻む地となってゆくのです。