阿曽沼(浅沼)一族 
昔の出来事(5)

1. 吾妻鏡に足利義兼と共に記される「阿曽沼四郎廣綱」

寿永三年(1184年)八月八日、源範頼と共に 足利義兼公が平家追討に出陣した事が吾妻鏡に記されます。頼朝の弟である範頼を先頭(大将)として、北条小四郎(後の執権北条義時)に続く位置に足利蔵人義兼の名が確認され、義兼が北条義時と共に副将格にあった事が伺えます。その位置は頼朝の旗揚げに大功のあった千葉常胤(5番目)や、頼朝の父・義朝の代からの家人である三浦義澄(7番目・足利樺崎の長義季の兄)などの重臣よりも上に並んでいました。そしてこの御家人の列の16番目に名が記される人物こそが本稿の主人公『阿曽沼四郎廣綱』です。その名は下野国の有力氏族小山氏の一門・結城朝光(13番目)、武蔵国の有力氏族・比企能員(15番目)に続く位置にあり、三浦氏の一門にあり、侍所別当の任にあった和田義盛(17番目)の前に記されるほど有力な武将でした。阿曽沼一族は後に名を改め浅沼と称する一族となり光得寺を支えた一族のひとつとなります。

2. 阿曽沼(浅沼)氏の祖

阿曽沼氏は天慶三年の平将門の乱を平定した藤原秀郷を源流とする一族です。後に佐野の阿曽沼の地に居を構え「阿曽沼」を名乗ります。現在も佐野市浅沼町294に『阿曽沼城跡』の碑が建てられ、近くに鐙塚阿曽沼館跡なる名称も残されます。その位置関係から佐野市駅南東部一帯から三毳山に至る地域が所領で在ったと考えられます。ここは唐沢山城の門前、後の時代に有名になる「犬伏の宿」の南に広がる地域であり、街道の重要拠点でもありました。

佐野において藤原秀郷の一族と聞くと、古より佐野に盤踞したと思われるかも知れませんが、阿曽沼氏は平安時代末期に足利を拠点として発展した『藤姓足利氏』一族が佐野に再進出し、頼朝公旗下で活躍して得た所領です。阿曽沼氏初代は先に吾妻鏡での登場を紹介した「四郎廣綱(広綱)」です。

阿曽沼廣綱(広綱)は、同じく佐野を拠点とした佐野基綱の弟。父は足利有綱。藤姓足利氏四代目当主・足利俊綱の弟でした。年代は不祥ですが有綱が東大寺の僧「覚仁」の後を継ぎ東大寺領・戸矢子郷(栃木市北部山間地)の保司となり蓬莱山に不摩城を築いたと伝わります。戸矢子郷は東大寺文書によると長寛二年(1164年)に東大寺領となっていることから、その年代に藤姓足利氏が現在の佐野市、栃木市北部の山間地に進出してきたと推測されます。また治承二年(1178年)には、藤姓足利氏四代目当主・足利俊綱もまた現在の佐野市・赤見地域に城を築いています。足利の樺崎から越床峠を越えた先、飛駒川が拓いた扇状平地の中央に築城された「赤見城」は、藤姓足利氏が足利に築いた城(現在の鑁阿寺)同様、堀を巡らし土塁で囲まれており地域支配の拠点としての役割を担っていたと考えられます。このような藤姓足利氏による積極的な佐野進出は、中央において平氏が台頭し、平清盛の子・重盛(治承三年・1179年没)が在世の間に盛んに進められていました。現在の足利市中央部、鑁阿寺の東南にあります善徳寺境内に平重盛供養塔と伝わる五輪塔が現存しており、藤姓足利氏と平家との繋がりを感じさせます。

※ 善徳寺は室町時代の創建です。この時代藤姓足利氏の館が現在の鑁阿寺の場所にあり周辺にまだ足利学校も善徳寺も在りません。当時の足利学校は衰退しておりその跡地が現在の伊勢南町近傍に在ったことが発掘により確認されています。

足利有綱の子・佐野基綱、阿曽沼広綱兄弟がいつ頃どのような経緯から現在の佐野市中央部から南部に至る領域に覇権を確立したかは定かではありませんが、吾妻鏡に『阿曽沼廣綱(広綱)』の登場の年代を考えると、寿永二年(1183年)に下野国南部で戦われた『野木宮合戦』の結果が大きく影響していると考えられます。野木宮合戦で足利有綱・佐野基綱・阿曽沼広綱は小山朝政と共に志田義広並びに藤姓足利氏俊綱と戦い勝利しています。有綱、基綱、広綱らが佐野に支配権を確立し自立したのはこの戦の結果であろうと考えられます。

3. 野木宮合戦

『野木宮合戦』の結果、藤姓足利氏は滅亡したと考えられています。しかしこの『野木宮合戦』に関しては多くの謎や疑問が提起されています。その一番が「発生の年代」です。吾妻鏡の記述によれば『野木宮合戦』は治承五年(1181年)閏2月23日に行われたと記されますが、近年の研究では『野木宮合戦』は寿永二年(1183年)2月23日に行われたとする説が有力です。肝心の吾妻鏡の寿永二年の記述が丸々欠落している事もあり、この論争は現在も続いています。

さて吾妻鏡には『野木宮合戦』が志田義広が藤姓足利忠綱と相計り鎌倉に攻め上る事を意図した謀反と記されます。義兼の所領である「足利」を基盤とした氏族の反乱で在り、鎌倉における義兼の動向や関与が注目されても不思議ではありませんが「足利義兼」の名はこの戦の記録に一切登場しません。『野木宮合戦』が行われたとされる治承五年(1181年)もしくは寿永二年(1183年)当時義兼は北条時政の娘を娶り頼朝の義兄弟として鎌倉に在ったと考えられますが、同じく鎌倉に在った「長沼宗政」が兄・小山朝政の下に急ぎ参じた逸話を吾妻鏡に残した事に比べ、当事者とも言える義兼の動向が記されていない事は奇妙とも言えるでしょう。この記録が無いと云う事から藤姓足利氏が源姓足利氏(義兼)に従属する者では無く、また同時に足利郡内における義兼の軍事的実力(動員力)が皆無に等しい物であったとする見解もあります。他方、藤姓足利忠綱と同族でありながら敵対する事となった足利有綱以下、佐野氏、阿曽沼氏の動向について義兼の働きが在ったとする説も聞かれます。

戦いは志田義広と小山氏との間で口火が切られ、そこに後詰めする形で下河辺氏や足利有綱以下、佐野氏、阿曽沼氏が参加し、一日足らずで決着しました。敗北した志田義広は源義仲の下に逃亡します。また戦いに参加するまでもなく敗れた藤姓足利氏忠綱はいったん上野国に謹慎するも後に山陰を経て西海方面に逐電したと伝聞が記されます。そして志田義広に従った者は皆、所領を没収され、小山氏をはじめとする勝者がその所領を分かち合います。足利有綱以下、佐野氏、阿曽沼氏が佐野地域に確固たる自立基盤を築いたのはこの戦いの勝利が大きな要因となったのだと考えられます。

『野木宮合戦』の後、足利にとって重要な後日談が吾妻鏡に記されています。同年9月7日の条に頼朝が藤姓足利氏四代目当主俊綱(先に登場した忠綱の父)を追討すべく三浦氏の一族・和田義茂を向かわせたとあります。そして早くも13日には和田義茂から、俊綱が家臣の桐生六郎により討たれた事が伝えられます。この桐生六郎なる人物は忠綱を西海方面に逃がした者と同一人物です。藤姓足利氏はここに滅亡する事となりました。以後、義兼が足利郡全域(現在の足利市渡良瀬川以北の地域)に知行権を行使できる立場となったと考えられていますが、実際、足利郡内には足利荘の他、国衙領や都の権門の荘園が多数存在しており、この時代の鎌倉政権にはそれらすべての所領を義兼に知行させる権限は有りませんでした。(現在の足利市渡良瀬川以南の地域は梁田郡と呼ばれ義兼の兄・足利義清が有する地域で在ったと考えられています。)

4. 源姓足利氏の発展と佐野氏一門との共栄

源頼朝の下で足利郡内に地歩を固めつつあった義兼に対し、兄である義清は源義仲の旗下にありました。頼朝と義仲は親の代からの競争関係にあり、この時期には平氏を都から駆逐した義仲が優越の位置にありました。ところが義仲は都で朝廷に疎まれ、更に平氏を追って中国地方に出するも寿永二年(1183年)閏10月1日の備中国水島の戦いに大敗してしまいます。義兼の兄・義清はこの戦いで討死しています。更に頼朝と手を結んだ朝廷が発した「 寿永二年十月宣旨」により両者の立場は完全に逆転し、寿永三年(1184年)1月20日粟津の戦いで義仲もまた敗死を遂げています。

義仲旗下にあった兄・義清の戦死により、義清が有した梁田郡内の所領もまた世襲的に義兼が有する事になり、義兼の支配圏は現在の足利市域に匹敵する領域にまで拡大しました。しかし当時の領国支配は長年にわたり農民層に血縁を浸透させた土着氏族が重層的な支配体制を確立していました。足利郡内は滅びたといえども藤姓足利氏の縁者が農民支配層の多数を占めていたと考えられ、同様にの梁田郡内においては高階氏(後の”高”氏)の一族が土着民の支配層に在ったと考えられます。元は200町程の小荘園領主であった義兼にとってその数倍にも急拡大した領域を運営するためにはそうした既存組織と協調路線をとる必要がありました。しかしここには大きな問題がありました。それは、滅びた藤姓足利氏と高階氏とは古からの因縁があり、特に康治二年(1143年)の梁田御厨荘設置以降”給主職”を巡り両者の間に二十年近くの争論が続き、決着の後も遺恨を残していた事でした。この当時(足利俊綱・忠綱無き後)定かな記録は有りませんが、足利有綱が藤姓足利氏一門の棟梁として台頭していたであろうと推測されます。それでもこの時点では両者に利害の衝突する事態は生じていませんでした。

寿永三年(1184年)8月8日、冒頭に記した通り『阿曽沼(浅沼)廣綱(広綱)』は『平家追討軍』の16番目にの名を記され鎌倉を発しました。そして元暦二年/文治元年(1185年)2月26日には平家の後背を突くべく九州豊後国に渡る武者中に義兼と共に浅沼四郎廣綱の名が確認されます。そして元暦二年/文治元年(1185年)3月24日に壇ノ浦の戦いで平氏は滅亡する事になりました。戦後、鎌倉において勝長寿院(頼朝の父・義朝の菩提寺)の落慶が営まれその参列者中に次の三名の名が記されます。

  • 上総の介義兼
  • 足利の七郎太郎(足利七郎有綱か?)
  • 佐野の又太郎(佐野太郎基綱か?)
  • 浅沼の四郎廣綱
文治元年(1185年)11月、朝廷は鎌倉政権の「守護・地頭の設置」の権限を認め 文治の勅許を発します。これにより鎌倉政権は国衙、荘園を問わず支配する地頭職の任免権を手にし、地頭職の任免を以て武者の所領を安堵し、武者を御家人として鎌倉政権の支配下に置くことになりました。御家人は幕府の求めに応じる義務を有する事となります( 御恩と奉公)。

その直後の文治二年(1186年)足利で発生した事件が今に伝わります。足利有綱が源姓足利氏と佐野の赤見で戦い敗れ自刃したと云う話です。それがどのような事情で発生したかを詳しく記すものは見つかりませんが、その後、鎌倉時代を通じて足利家の家政を高階氏(=”高”氏)が取り仕切るようになる事を考えると、鎌倉政権が正式(文治の勅許に基づき)に義兼を足利郡、梁田郡の地頭に任じた際、地頭の現地代理人である「現地沙汰人」の座を争い両者が衝突し、結果、有綱が敗北したのではないかと考えられます。この件は吾妻鏡にも記されない小さな出来事であり、足利家内の問題として処理されたと思われます。

5. 阿曽沼(浅沼)氏と三浦氏

文治五年7月19日 奥州討伐の軍列の中に佐野の太郎基綱阿曽沼の次郎廣綱の名を確認できます。それ以前の吾妻鏡の記述には浅沼姓で記されますが、ここには阿曽沼姓で記されており、また”四郎”が”次郎”であったりと混乱も見られますが同一人物と思われます。

文治六年/建久元年(1190年)11月7日の頼朝上洛の大軍勢の中に次の名を確認できます

  • 十五番  佐野の又太郎(佐野基綱か?)
  • 五十三番 足利の七郎四郎(足利七郎は足利有綱の名であり、その子四郎ならば”阿曽沼広綱”)
  • 五十三番 足利の七郎五郎(同じく五郎ならば”木村信綱”)
  • 五十四番 足利の七郎太郎(太郎であるならば”佐野基綱”だが、兄弟何れかの誤記か?)

建久四年(1193年)5月8日富士野・藍澤の夏狩りにも”浅沼の次郎”の名を確認できます。尊卑文脈では阿曽沼広綱の子は共に次郎とあり親綱または朝綱と思われる。この時有名な「曽我兄弟の仇討」事件が発生しています。

建久六年(1195年)3月10日 東大寺供養を兼ねた頼朝上洛の軍勢の中に次の名を確認

  • 佐野の七郎(該当者不明)
  • 阿曽沼の小次郎(尊卑分脈で広綱の孫<朝綱の子>にその名を確認)
  • 足利の五郎(木村信綱か?)

※ 余談ですが、足利の五郎の郎党が同年5月15日、都の六条大宮で三浦義澄の郎党と乱闘になったそうです。

同年5月20日の頼朝の天王寺参りの列にも”阿曽沼の小次郎”の名を確認できます。この列中に義兼の名も記されますが、これが吾妻鏡における義兼の最後の記述となります。

阿曽沼姓と浅沼姓が入れ替わり登場したり広綱が四郎や次郎と記されたりと、吾妻鏡は以前から誤記や混乱が指摘されている通り正確性には疑問も残ります。それでも阿曽沼氏が鎌倉時代の初めに頼朝の御家人として活躍し、東大寺の開眼供養に随行したという記録は歴史に残された誇らしい足跡です。そうした阿曽沼(浅沼)氏の一族がどのような経緯で足利の菅田・樺先の地に土着したかは定かではありませんが、いうまでもなくこの地域は藤原秀郷以来、その子孫が開拓し在地の支配を確立してきた土地です。土着民の多くが秀郷の縁につながる一族で在りましたから、婿取りなどにより名門「阿曽沼氏」の名を得たことは十分に考えられる出来事です。

また別の見方として幕府重臣・三浦氏の関与ととれる点もあります。それは阿曽沼広綱の兄の一族・佐野氏が、宝治元年(1247年)の『宝治合戦』で三浦氏が滅ぼされたことで暫し家勢が衰えたと伝わる事から、佐野氏(阿曽沼氏)は三浦氏と縁浅からぬ仲で在ったのでは無いかということです。先にも述べた通り治承五年に佐野氏・阿曽沼氏にとって宗主とも言える藤姓足利氏俊綱を追討したのは三浦氏の一族・和田茂盛でした。その戦いに足利荘領主・義兼も参陣したという説も聞かれます(吾妻鏡に記載なし、真偽不明の風聞)。同様に佐野氏、阿曽沼氏も参陣したとしても不思議は有りません。追討において戦いは有りませんでしたが、ここで佐野氏・阿曽沼氏は三浦氏との間に繋がりを持ち、参陣の褒賞として足利荘の内・菅田の一角に所領を有したのかも知れません。足利荘の内・樺崎には別稿で紹介した三浦氏の一族『長義季』が土着しておりましたが、義季もまた三浦氏の一族であり、藤姓足利氏追討を任じられていた和田茂盛の叔父にあたる人物でした。そうした血縁も影響したかも知れません。

このように治承寿永の年代に足利と鎌倉(三浦氏)をつなぐ鍵となった一族が現在に至るまで光得寺を護持する一翼を担ってきたことは、興味をそそられる事実では無いでしょうか。最後に、尊卑文脈において浅沼広綱より四代後の浅沼氏綱が下野守となった事が記されていることを加えさせていただきます。