樺崎寺と樺崎八幡宮
足利の昔 (3)

光得寺が在る足利市菅田町と隣接する樺崎町とは古から深いつながりがあります。それでいて鑁阿寺縁起に記された「樺崎寺への所領寄進」の記録には月谷、田島、名草などの名が有りながら、間の菅田の名が無い事は些か不思議に思えます。もしかすると当時の菅田は隣接するいずれかの地域に含まれていたのかも知れません。そうであるならば当時の菅田は自然境界である名草川あたりまで樺崎の一部として扱われていたかも知れません。

さて今回の話題は、その「樺崎」の昔のお話です。

樺崎の名前は『樺崎寺』の在る場所としてWikipediaにも登場します。現在の『樺崎寺』跡には、『樺崎八幡宮』が残されており、両者をひとつのものと混同してしまう事があるようですが、はじめ『樺崎八幡宮』が創建され、そこを中心に様々に伽藍が整備され『樺崎寺』となったと云うのが順番の様です。
『下野神社沿革誌』によれば『樺崎八幡宮』は西暦838年に一族の租・長六郎平爲により建立された『赤土神社』に、西暦1056年、源義家が八幡神を勧請・合祀し八幡宮とし、更に西暦1199年に生入定された義家の曾孫、足利義兼の御霊をも合祀したとされます。『樺崎八幡宮』の宮司は歴代一族の者がその任に当たったと記録されています。
一方の樺崎寺は、足利義兼が帰依していた理真上人に奥州征伐出陣に際し樺崎を寄進し、戦勝祈祷を願い、その時の『祈禱所』が後に下御堂と呼ばれた樺崎寺(寺院群)の中心堂宇であると言われ、義兼の御霊を祀る通称「赤御堂」は八幡宮社殿を指して居るのでは無いかと考えられています。同じ供養施設でありながら立場の違いから呼び方が異なって居たようです。樺崎寺の責任者である「別当」には理真上人以降僧侶が任じられ足利氏一門の安寧を祈願して行きました。このように神仏が合祀される例は鶴ケ丘八幡宮などにも見られ当時は特別な事では有りませんでした。

しかし明治四年、神仏分離令により当時既に廃寺同然であった樺崎寺(下御堂とされるが定かではない)は手続き上廃寺となりました。これにより『樺崎八幡宮』だけが残されました。この神仏分離令は寺の打ち壊しなど求めて居ないのですが、世間の流れに流され樺崎寺を打ち壊したのかも知れません。その際に流出したと考えられているのがニューヨークのオークションで騒動を巻き起こした『真如苑像』です。

『下野神社沿革誌』の記載によれば『樺崎八幡宮』には足氏に関わる宝が残されていたとあり、その中の『楠の丸彫笈』と『厨子二箇(雲慶作・八幡太郎義家の像、地頭堀欽太郎より奉納)』が光得寺に移されたと記されますが、現在光得寺に現存する運慶作と考えられる『大日如来坐像』は残念ながら八幡太郎義家の像とは考えられません。

樺崎寺が廃寺同然となったのは、戦国時代末期に大檀那である足利氏没落に始まり、太閤検地で所領が改められ、その後発せられた徳川幕府の寺院統制法令により寺の維持が困難になったためです。幸いにも樺崎寺に伝えられていた歴史的な遺物は廃寺の際に近在の者により光得寺に運ばれ現在に至りますが、文書を始めとした多くの記録がこの時期に散逸してしまいました。