光得寺縁起編纂委員会

その切っ掛けは…

光得寺縁起を調べ始める切っ掛けとなったのは、或る日ご住職から「大日如来坐像」に関する話を伺った時の事でした。「明治元年の火災で当時の住職が大日如来は運び出せたが、他の文書・書付の類がすべて焼けてしまった事は残念だった」という一言がその切っ掛けとなりました。

そこには大きな問題が潜んでいました。ひとつは廃仏毀釈により樺崎寺から大日如来が運び込まれたのは「明治三年(または四年)」と鑁阿寺ならびに樺崎八幡宮の記録には有りますが、光得寺の口伝ではそれ以前から大日如来坐像は寺に伝わっていたと云う事になります。さらに明治三年当時の光得寺は灰塵に帰しており、仮に復旧されていたとしても仮設のあばら屋程度で在ったと思われ、とてもご本尊をお預かりできる状態には無かった点。そして、そもそも、なぜ樺崎寺下御堂の本尊を光得寺に運び込んだのかという根本的な動機…。光得寺縁起の調査・研究はそうした疑問から始まりました。

光得寺の名を探す…

先ず初めに手掛けたのは閲覧可能な様々な史料の中に「光得寺」の名を見い出す作業でした。既に明治年間に発刊された「鑁阿寺小史」なる書物の内に『金剛界大日如来三十七尊の像を三尺七寸の厨子に納め…この厨子は今菅田村光得寺に存す』の一文が記されている事は確認していましたが、記述の根拠となる史料が確認できません。この記述からでは真言宗寺院で在った樺崎寺のご本尊がなぜ他宗派(禪宗)の寺院に移されたかその動機が不明なのです。そこには必ず理由が在ると考え「光得寺」の名を史料の中に探す作業を続けました。これは想像以上に困難な作業で、殆どの史料には「光得寺」の名を見い出す事が出来ませんでした。

やがて鑁阿寺縁起の内最も新し時代に作成されたと考えられている別縁起の補記中に「菅田村光徳寺」と云う名前を見い出しました。現在の寺名「光得寺」と文字が異なりますが、それが「光得寺」を指す事に間違えは有りませんでした。その記述から「光得寺」が樺崎寺の一院である事が朧気に見えてきましたが、「光得寺」の名前は他に見いだす事が出来ません。光得寺の縁起を探る為、鑁阿寺縁起から「足利氏」の歴史を紐解いてゆくと、どうしても説明できない事に行き当たるのでした。

始まりが間違っていた…

その後様々な史料を確認する内に根本的な錯誤に気付く事になります。それは「足利氏」の名字の地である「足利荘」が足利全域に及ぶ荘園などでは無かったと云う意外な事実でした。そして伝承等を元に「足利荘」を菅田・樺崎地域と比定すれば様々な事象が矛盾なく説明出来る事に気が付いたのです。これは重要な発見でした。もしも「足利荘」が菅田・樺崎地域で在ったならば「なぜ理真上人は樺崎の大窪に居を構えたか」「なぜ樺崎に足利氏の霊廟樺崎寺が創られたか」「なぜ義兼は晩年樺崎に戻ったのか」「なぜ光得寺に大日如来坐像が在ったのか」などの様々な問題はただ一言「義兼の故郷だから」で説明できるのです。更に「足利荘」が菅田・樺崎地域という小さな領域で在ったと考えると「藤姓足利氏との関係」や「頼朝の下に向かった理由」なども推測できるようになりました。むしろ、なぜ足利荘が足利郡全域であると考えられるようになったのか新たな疑問も沸き起こりました。

この「足利荘」領域が一般認識と違うという点に着眼した時、昔から語り継がれる「足利の伝説」の内にも考えてみれば奇妙な伝承が有ることに気付きました。

伝承の違和感…

それは鎌倉初期のお話として伝わる義兼の妻・時子に関わる「蛭子伝説」を始めとした藤姓足利氏・忠綱の伝説です。詳細は別項に譲るとして、その違和感とは源姓足利氏の発祥の地に、なぜ藤姓足利氏・忠綱を祀り上げるような伝説がなぜ伝えられるのかと云う事です。判官贔屓(はんがんびいき)と云うならばこの伝承を伝えた土地の住民には藤姓足利氏への愛着が有ったと云う事になるでしょう。つまり、この伝承の現場である現・鑁阿寺周辺は藤姓足利氏を領主と慕った住民の土地で在ったという事です。従来、鑁阿寺は源義国・足利義康以来の源氏屋敷と言われますが、どうやらその見解は間違えの様です。どこかで歴史が歪められた痕跡を感じてしまいます。

尊氏の死により衰退す…

委員会ではその件に関して、「薩埵山体制の終焉による上杉氏の台頭」と「永享の乱における鎌倉公方足利氏の衰退」により樺崎寺が衰微してゆく事が原因であったと考えています。永享の乱以降足利は完全に上杉氏の統治下に入りました。統治者である上杉氏は上野国を所領としており配下には多くの藤姓足利氏の縁者が居た事が推測でき、その者達が昔から語り継いだ「亡主の伝説」が「足利の伝説」の元の話と混ざり合って行ったのでは無いかと考えました。

樺崎寺の衰微する様子は鑁阿寺に残された樺崎宛の書状の移り変わりからも見てとれます。また光得寺の過去帳に記される樺崎寺と同じと思われる足利氏歴代の供養者の名前、五輪塔の記銘などからも樺崎寺の衰退が感じられます。そこから、樺崎寺衰退の過程で『足利における「足利氏の歴史」は敗者の歴史に差し代わった』のだと考えたのです。

鑁阿寺文書の年代

下表は鑁阿寺に残された樺崎寺関連の文書を年代別に並べたものです。足利尊氏の死(薩埵山体制の崩壊)、永享の乱、享徳の乱以降で文書の傾向の変化が読み取れます。

※ 一覧内の文書は樺崎宛を確認できる文書のみ掲載しています。

第一期(~尊氏死去)この期間寄進状などの重要書類の宛先が樺崎寺であり、鑁阿寺大御堂の再建奉行も樺崎法印源助です。つまり全て樺崎により仕切られていました。

第二期(~永享の乱)宛先に鑁阿寺が登場し、明らかな体制変化が確認できますが、鎌倉府健在のこの時期には樺崎宛の書状もまだ数多く並行して届けられています。

第三期(享徳の乱まで)文書名と宛先が一致せず、樺崎宛の書状を鑁阿寺塔頭が受け取っているかのように見えます。鑁阿寺への業務移管が完了していると考えられます。

第四期(~享徳の乱~)この時期に上杉房定の制札(禁令)が届いている事は足利が上杉氏配下にある事を意味しています。足利はこの戦の最前線にありました。

第五期(享徳の乱以降)書状そのものが激減します。

年代 西暦 文書名 宛先
1 文永七年 1270年 重円奉書 樺崎殿
2 正安元年 1299年 大御堂上棟奉行 樺崎法印源助
3 貞和三年 1347年 基氏上野国芝塚郷寄進 足利赤御堂
4 観応二年 1351年 基氏丸木郷寄進 樺崎
5 文和元年 1352年 基氏垣見郷寄進 赤御堂
6 尊氏御教書 樺崎寺別当
足利尊氏逝去(1358年)
薩埵山体制の崩壊(1362年)
7 貞治二年 1363年 基氏補任状 樺崎・鑁阿兩寺別当
8 貞治頃 弘賢伝 鑁阿寺・赤御堂別当
9 不詳 氏満書状 樺崎寺
10 応永二十三年 1416年 快尊伝 鑁阿寺・赤御堂別当
11 応永二十八年 1421年 満兼十三回忌供養 樺崎法界寺道場
12 応永二十九年 1422年 宥俊譲状 樺崎辻部屋
13 正長三年 1430年 持氏御教書→當寺別当 鑁阿樺崎於兩寺
14 永享三年 1431年 尊運諸職注文 鑁阿寺並赤御堂付八幡
15 尊仲伝 鑁阿寺・樺崎赤御堂
16 永享四年 1432年 宥雅・昌珎 鑁阿寺同樺崎兩寺下行
永享の乱(1438年~1439年)
17 文安頃 久豪書状→大杉坊 赤御堂殿御池
18 宝徳頃 弘尊書状→宝珠院僧都 樺崎御影堂
19 弘義書状→千手院 鑁阿寺・樺崎兩寺
享徳の乱 勃発(1455年~)
20 康政元年 1455年 上杉房定制札 鑁阿樺崎兩寺
21 長禄元年 1457年 重為書状→不動院 社務様樺崎ニ御在郷
22 文明四年 1472年 矢野憲信書状→浄土院 當寺樺崎御建立
享徳の乱 終結(~1483年)
23 文亀頃 弘勝書状→龍福院 二位公樺崎へ
24 天文二年 1533年 権大僧都宥誉譲状 樺崎辻部屋

委員会ではこの「文書の傾向の変化」こそが樺崎寺の変化と衰退を示していると見ています。樺崎寺は一般認識よりも早く1362年頃から既に衰退しはじめ、その機能を鑁阿寺に移していったと考えています。

鑁阿寺と樺崎寺の位置関係

鑁阿寺別縁起に『且従當寺大塔至的山。建三十七本卒塔婆表示金剛界果地三昧耶也。』と云う一文(原文)が記されています。これは明治年間に刊行された「鑁阿寺小史」の記述には『義国以来数代の父祖の地、而も別業たりし上地を以て梵郭となし、輪奐荘麗たる七堂伽藍を創設し、以て偏に高野山に擬し、南天の教風をこの僻陬に扇き東寺の餘澤を酌んて、天下安全武運長久の所誓を擬して、退轉なからしむ、頼朝また力を盡せしを多しと云う、惟ふに鑁公當寺を以て檀上となし、樺崎を以て奥の院となし、兩寺通路の間三十七本の卒塔婆を起て、金剛界果地の三昧耶を表す。』と説明される文章と対であると考えられます。

小史の文書を簡単に書き換えますと『義兼は足利を高野山のような宗教地域とする為に、鑁阿寺を高野山の檀上(伽藍)に見立て、樺崎寺は奥の院(弘法大師御廟)と見立て、その間に三十七本の卒塔婆を建て、金剛界果地の三昧耶を表した。』となり、別縁起と対になる赤文字範囲の外は「鑁阿寺小史」においてのみ記される文章です。

鑁阿寺縁起の各所に登場する「高野山」に関わる記事は、実在の高僧「鑁阿上人」と「足利義兼」を同一人物と錯誤した事を原因として記されており、両者が同一人物では無い事は近年の様々な研究で確認されています。従って鑁阿寺を檀上とし樺崎寺を奥の院とするという「鑁阿寺-奥の院体制」という考え方も樺崎寺創建当時には存在せず後世の創作であると考えられます。(そもそも樺崎寺創建当時鑁阿寺は持仏堂を有する住居跡でしか有りませんでした。)

それでも「樺崎寺」が高野山奥の院に相当する「足利氏の霊廟」である事には異論は有りません。しかしそれは鑁阿寺に付属する奥の院などでは無く、ひとつの独立した『霊廟』としての話です。それでも現時点では『鑁阿上人義兼による「鑁阿寺-奥の院体制」』が口の端に上る事は多いようです。昭和期に出版された書物などにより一度広められた歴史は中々修正する事が出来ません。

なお鑁阿寺と樺崎寺の関係を感じさせる一つの事実が有るのでご紹介します。それは「現在の鑁阿寺の掘割の南西角と北東角を結ぶ対角線の延長上に「樺崎八幡宮の社殿」が現れる」と云う事実です。これは偶然なのか意図したものなのかは定かでは有りません。仮に意図したもので有ったとしても「鑁阿寺-奥の院体制」を証明する事にはなりません。なぜならば鑁阿寺の掘割が歪に変形しているからです。この形状は双方の建造物が別々の意図で築かれ、後に辻褄を合わせたと考えられるからです。

高野山奥の院と樺崎寺の相似性

樺崎寺が「足利氏霊廟」である事は異論の無い所でありますから、それを「奥の院」と見立てる事もまた議論の余地は有りません。ではその場合檀上はどこに在るべきかと考えたのが下の2枚の地図です。上が高野山の檀上伽藍-奥の院の関係図であり、下が光得寺-樺崎寺の関係図です。縮尺は異なります。徒歩での到達時間を目安にすると1.5倍ほど差があります。

この位置関係を似ていると見るか、異なると感じるかは見る人それぞれの主観の問題です。これは偶然の産物とは思いますが、面白い発見をしたのでお伝えしてみました。

藤姓足利氏と忠綱伝説

足利には古くから伝わる多くの伝説が残されていますが其の中に「藤姓足利氏・忠綱の伝説」と呼ぶに相応しい伝説があります。それは次の四つの話題から出来たひと繋がりのお話です。

蛭子伝説(=あかずの井戸)

逆藤天神(さかさふじ天神)

赤雪山伝説

忠綱八幡宮

お話の主人公である足利忠綱と云う人物は別項にも記した通り「藤原姓の足利氏」の一族であり、義兼が足利全域の知行権を獲得する以前足利の大半を支配下に治めていました。しかし治承寿永の乱(頼朝が覇権を確立するまでの一連の内乱)の中で滅亡し、その後「足利」は義兼が治める地となりました。

伝説の中で「足利忠綱」は義兼に仕え足利屋敷を取り仕切っていた事になっています。それ自体が理解できない内容なのですがここでは敢えて触れずにお話の概要を記します。

或る日鎌倉から戻った義兼は侍女の藤乃から「時子様(義兼の妻)と忠綱殿が不義の関係にあり、時子様はすでに忠綱殿の子を身籠られている」と告げられ激しく怒ります。身に覚えの無い嫌疑を掛けられた忠綱は一旦足利屋敷を逃げ出し、義兼から不義を問い詰められた時子は「死後、腹を開いてみよ」と遺言し自害してしまいます。時子の遺言通り義兼が腹を裂いてみるとそこからは無数の蛭(ヒル)が湧き出て来たのでした。時子の無実を知った義兼は侍女の藤乃を牛裂きの刑に処しました。これが蛭子伝説です。一方、怒る義兼から慌てて逃げ出した忠綱は、足利屋敷の北に在った天神様で一息吐きました。その時忠綱が地面に刺した一本の藤の枝がやがて根付いた事から、この場所を「逆藤天神」と呼びます。その後足利の山中に逃れた忠綱は追手に追い付かれ雪を血に染めた事からその山を「赤雪山」と呼ぶようになりました。そしてついに山を越えた皆沢という場所で力尽き討ち取られました。その地には忠綱八幡宮が建てられました。

滅亡した藤姓足利氏への憐憫の情はわかりますが、義兼の人となりを「猜疑心が強く」、死後妻の腹を裂き腸を探るような「残虐性」を併せ持ち、偽りを告げた侍女を容赦なく残虐な方法で殺す「冷酷無情な人」と描いている点が奇妙に感じます。時子に対しても或る意味侮辱的な描写をしています。事実はいずれにしても何故このような伝承が伝えられたのでしょうか。「判官贔屓(はんがんびいき)」と言えばそれまでですが非常に不可解な伝承です。

この伝承の通りで在るならば、先ず足利忠綱は家中の者として留守を守っていた事になります。それ以前の藤姓足利氏の源氏に対する敵対行動を考えると支持する事の出来ない話です。そしてこの出来事の後、義兼は「出家した」と続く事からお話の時期は建久六年(1195年)7月頃の話か、または一般に時子が亡くなったとされる建久七年(1196年)6月8日前後の話と考えられます。しかしその何れの年であっても6月~7月では「赤雪山」の下りに記されるような「血で赤く染まる雪」はあり得ません。更に「忠綱八幡宮」の伝承に関しても下野神社社沿革史〔明治三十五年風山広雄編)には「忠綱は建久五年(1194年)に戦死」とあり年が異なります。他にも「忠綱は野木宮合戦に敗れ後にこの地で戦死」と云う伝承も有ります。その場合は寿永二年(1183年)2月23日または治承五年(1181年)閏2月23日であり「赤雪山」の伝説が成り立ちますが、時子の没年や義兼の出家との整合が取れません。季節の事を踏まえれば建久六年および建久七年はあり得ず、それ以外の年では時子や義兼の行動と整合が取れません。「忠綱の逃亡劇」が義兼や時子に関係した行動である可能性は皆無です。

思うにこのお話は2つの異なる話から出来ています。ひとつは早産、死産、多胎児、異常妊娠など理由はいずれにしても出産間もなく我が子を亡くした時子の悲しいお話と、そしてもうひとつは藤姓足利氏滅亡の時の忠綱逃亡劇という話です。前者は出産した子供を水子(水子には胎児だけではなく出生後まもなく死亡した子も含まれる)の内に亡くした話が、イザナミの産んだ「蛭子神」の伝承と重なり、「水子」が同義の「蛭子」となり、現在の鑁阿寺境内にある蛭子堂の創建に繋がったと考えられます。そして生まれて間もなく亡くなった子供とは、鑁阿寺古縁起において樺崎寺下御堂の仏壇下に葬られたと伝わる「瑠璃王御前」と「薬寿御前」で在ったと考えられ、(別縁起ではこの記述が「女子三人」と書き改められて混乱しています。)更にその時期は、吾妻鏡文治三年(1187年)12月16日の条に記載された「義兼の北の方(時子)の急病に際し政子が見舞う」の記述が相当するのでは無いかと思われます。その翌年義兼は鎌倉に極楽寺を創建しており、その動機にもなり得ます。この伝説はもとは「元気な子を産み育てられなかった時子の悲しみ」と「義兼の落胆」を伝える内容で有ったと考えられ、鑁阿寺別縁起に記される「悲歎の余り犀皮の鎧を売り大日尊を彫らせ、法界寺下御堂を建立した」との記述が元の話であったのでしょう。

忠綱の逃亡劇については概ね伝承の通りでしょう。しかし時期については定かでは有りません。一つの可能性として、忠綱の叔父である戸矢子有綱が文治二年(1186年)6月1日に源姓足利氏と戦い自刃したと伝わることに関係するかも知れません。

この二つの伝承が合わさり変質した背景としては、室町時代に上杉氏が勢力を伸長させ足利を支配下に置いた事が大きく影響していると考えます。上杉氏は上野国を所領としており、そこには当時も藤姓足利氏の連枝・末裔が土着し上杉氏の知行を担っていたと考えられます。藤姓足利氏最後の当主の悲哀を中心に描かれたこの一連の伝説は、元々は藤姓足利氏の連枝・末裔の間に伝えられていた話が、その一族が足利に移り住んだことで一緒に持ち込まれ、やがて現在伝わるような内容に変質したのでは無いかと考えます。

義兼は元より、義氏を生んだ時子もまた足利の父母のような存在です。歴史的事実かどうか確かめられない限り、蛭子伝説のように先人の尊厳を傷付けるような伝承は軽口に乗せて話す事は控えるべきかも知れません。