光得寺所蔵の文化財

銅造 阿弥陀如来立像

光得寺のご本尊様は「阿弥陀如来仏」です。阿弥陀様と親しみを以て呼ばれます。その名の語源となる梵名(サンスクリット語)ではアミターバ(阿弥陀婆:無量光)あるいはアミターユス(阿弥陀庾斯:無量寿)といい、『量(はかり)しれない光を持つ者』との意味があります。

光得寺に祀られる阿弥陀如来立像の光背には「元禄六癸酉年極月十五日 菅田山光得禅寺現住比丘祖梁再興焉」の朱書銘があり、そこから元禄六年(1693年)には光得寺が禅宗寺院であった事が分かります。しかし寺伝によれば光得寺が臨済宗寺院となるのは九世慧苗和尚からとされており、その前代・八世隣渓和尚は宝永二年(1705年)が示寂されたのは朱書銘の年の十二年後で在る事から、慧苗和尚は隣渓和尚の生前に住職を譲られたのか疑問が持たれます。なお臨済宗改宗前の宗派は真言宗と考えられています。

この時期の足利では元禄元年(1688年)に本庄宗資が藩祖となり足利藩を立藩されています。本庄宗資は鑁阿寺の多宝塔修復を行った桂昌院(五代将軍徳川綱吉の生母)の弟です。藩主本庄宗資は元禄5年(1692年)に笠間藩四万石に移ります。残念ながら光得寺にはこの年代の史料が有りませんが、鑁阿寺の多宝塔を修復された桂昌院の影響が藩主・本庄宗資を通じて光得寺にも及んでいた事は考えられ、宗派・住職の変わり目に何らかの影響を及ぼしていたとも推測できそうです。

年代 西暦 出来事
寛文五年 1665年 諸宗寺院法度九ヵ条
元禄元年 1688年 本庄宗資が足利藩を立藩
元禄五年 1692年 笠間藩四万石に移る
元禄六年 1693年 菅田山光得禅寺現住
比丘祖梁 再興焉
宝永二年 1705年 八世隣渓和尚示寂
元文五年 1740年 九世慧苗和尚示寂
寛政十二年 1800年 納之施主當所住長丹波

厨子には「寛政十二庚申八月吉日納之施主當所住長丹波」の朱書銘があります。別項でも触れていますが「長丹波」は、康平六年に樺崎を源義家に寄進し樺崎八幡宮の創建に尽力した長一族に縁ある者で、嘉永三年(1850年)刊行の「下野国誌」などによれば足利郡樺崎村八幡宮神主との事です。光得寺のご本尊「阿弥陀如来立像」が納められた厨子は樺崎八幡宮神主により奉納されているという事実は、樺崎寺と光得寺が地元民にとってはひとつながりの寺と認識されていたように思えます。

ご本尊・阿弥陀如来立像の来歴はこの二つの記銘から断定はできません。しかし義兼公が発願して創られたと伝わる樺崎寺の浄土式庭園・阿弥陀池の西岸には、阿弥陀堂が建てられ「阿弥陀如来」が祀られていたと考えられています。その「阿弥陀如来仏」が光得寺のご本尊として伝わった可能性は否定できず、また法楽寺(開基足利義氏)にあった阿弥陀池から出土したとも伝わります。いずれであるか確証が有りません。

※ 樺崎寺に近年復元された苑池は一般に阿弥陀池と呼ばれる浄土式庭園の一部です。阿弥陀池には通常極楽浄土を表すため池の西岸に阿弥陀堂が祀られますが、この阿弥陀堂に纏わる伝承が確認されていません。阿弥陀堂のご本尊は阿弥陀如来様であり光得寺ご本尊にも通じ、推定造立年代も鎌倉時代後期とある事から、樺崎寺の阿弥陀堂に祀られていた「阿弥陀如来仏」の可能性も指摘されますが、これは法楽寺阿弥陀池にも同じことが言えます。今後の検証を待ちたいと思います。

伝運慶作・大日如来坐像

昭和63年(1988年)に山本勉氏により確認・再発見された光得寺の大日如来坐像(光得寺像)は明治元年の火災に際して住職が命を賭して持ち出したと伝わり、長年光得寺に安置されていた御仏像です。一方、明治三年の廃仏毀釈により破却された樺崎寺神宮寺(下御堂)に安置されていた大日如来坐像は、平成15年に再発見され平成20年にニューヨークのオークションに出品され話題となりました御仏像です。その作風から推定される造形年代ならびに容貌が光得寺所蔵の大日如来坐像に酷似することから同時期の足利義兼由来の御仏像と考えられています。

この足利義兼由来と考えられる二体の大日如来坐像は共に運慶作と推測され、それぞれ所有者の名を以て「光得寺像」と「真如苑像(真如苑蔵大日如来坐像)」と呼ばれています。ここで明治三十年と明治三十二年に刊行に発刊された「鑁阿寺小史」の記録と二体の大日如来坐像の寸法等比較が以下になります。

「小史」記載の像 光得寺像 真如苑像
確認年 不明 1988年 2008年
所有者 樺崎寺→光得寺 光得寺 真如苑
厨子高 112.1㎝(三尺七寸) 83.3㎝(二尺七寸) 厨子はない
坐像丈 90.9㎝(三尺) 32.1㎝(約一尺一寸) 66㎝(約二尺二寸)
髪際高 不明 未計測 45.5㎝(約一尺五寸)

それぞれ寸法に違いがありますが、当時仏像の高さは「髪際高」で測り、坐像の場合は「髪際高」を2倍した立像換算値で呼びました。つまり「髪際高」一尺五寸の真如苑像は像高三尺の御仏像となります。これが真如苑像は樺崎寺・法界寺下御堂のご本尊様であったと推定する根拠となっています。残念ながら真如苑像の厨子は確認されておらず、「鑁阿寺小史」ならびに大正元年発刊の「足利庄鑁阿寺」に記される三尺七寸の厨子に納められていたかは確認できません。「鑁阿寺小史」と同時代に記された樺崎八幡宮側の史料「下野神社沿革誌」に記された「楠の丸彫笈」が真如苑像の厨子と思われますが残念ながら寸法の記載が有りません。

以上の通り明治年代の史料に「樺崎寺の大日如来坐像は明治三年の廃仏毀釈の際光得寺に移された」と記される御仏像は真如苑像であると考えられますが、明治元年の火災で光得寺が焼失した事により情報が混乱した事からか、今も尚移された御仏像は「光得寺像」であると記される事が多いようです。

いずれにしても光得寺としては、明治元年の火災に際して当寺の住職「赤堂和尚」が大日如来坐像の厨子を運び出したと伝わる事から、明治元年以前から「大日如来坐像」は光得寺に伝えられていたと考えており、また明治三年の時期に光得寺が樺崎寺のご本尊様をお預かり出来る状況に無かった事をお伝えしたいと考えています。

※ 「光得寺像」についてはその大きさから義兼個人の所蔵品であり、保存状態などからも寺院等に祀られず晩年義兼が隠棲した屋敷内に置かれていたと考えられます。仮に光得寺が義兼晩年の屋敷地で有ったならば、そのまま光得寺に伝来し所蔵されてきたとも考えられます。義兼発願の御仏像であるから樺崎寺に在ったと考える蓋然性は有りません。

岡崎山の黒地蔵

令和元年十二月、光得寺大日如来坐像の再発見の切っ掛けを作った大澤先生の監督の下、檀信徒の手により修復のために岡崎山を下りました。大澤先生は「黒地蔵は元は竹内地蔵堂の本尊である」と云う説と「堀内(鑁阿寺)地蔵堂を樺崎寺に移築する際一緒に移された地蔵尊である」と云う2つの可能性に言及されています。

黒地蔵が堀内地蔵堂から移されたものである場合、その年代は堀内大御堂が再建された正安元年(1299年)頃であり樺崎寺八代住持源助法印の仕事で在ったと考えられます。一方仮に竹内地蔵堂の本尊であるとする場合移された時期を特定する事は困難です。あえて可能性を論じるならば樺崎八幡宮神主「長丹波」が光得寺ご本尊「阿弥陀如来立像」の厨子を奉納した時期などが蓋然性があるように思われます。なお竹内地蔵堂の本尊であるならば、その姿は樺崎寺四代住持重弘の等身のもの伝えられます。今回の修復の結果新しい発見が為される事に期待が高まっています。

なお黒地蔵には「豆腐の伝説」があります。詳しくは足利図書館に在ります「足利の伝説」に記されます。

足利氏歴代供養五輪塔

現在光得寺の覆屋内に安置される光得寺五輪塔群は、元は足利氏の廟所である樺崎寺境内に祀られておりましたが、明治三年の神仏分離令に伴う廃仏毀釈により樺崎寺神宮寺(下御堂)が破却されるに際し足利氏ゆかりの光得寺境内に移されました。

五輪塔は平成十六年度には保存修理が実施され、現在は覆い屋内に南北2列(後列に十基、前列に九基)で並置されています。大形のものは主に凝灰岩製、中形のものには安山岩性の部材が混在しています。これらの部材の組み合わせは、樺崎寺から移設された際の組み合わせを忠実に再現しています。

五輪塔の各部材のほとんどに、それぞれ見事な薬研堀で梵字が刻まれており、大形の五輪塔は大日法身真言の梵字を刻むものが主体をなし、火輪には西方菩提門の梵字「ラン」が、水輪には同じく西方菩提門の梵字「バン」が、地輪には当方発心門の梵字「ア」が四面全てに掘られています。この様相は中形の五輪塔の中にもみられ、本五輪塔群の特徴を示しています。

五輪塔の地輪には以下の銘文が確認できるものが有ります。

〇「康永二年五月廿四日」(1343年) 後列南から4基目

この日付で国史大系第六巻を確認すると常樂記の記述として「康永二年五月廿四日高右衛門入道逝去(俗名師繼。法名道忍。改名師重」とあります。貞氏の代の足利家執事であった高一族の高師重です。(新情報)

〇「浄妙寺殿」(足利貞氏の法名)後列南から6基目

足利氏七代目当主にして、足利尊氏の父。火災で消失した鑁阿寺本堂(国宝指定)を再建した人物です。

〇「長□寺殿」(長壽寺殿とすると尊氏の法名)後列南より7基目

室町幕府・初代征夷大将軍。足利市内の善徳寺は尊氏を開基として創建されています。

〇「月海圓公大禅定門應安四辛亥年三月廿六日」(南宗継の法名1371年)前列南から4基目

高一族。南宗継は紀州名草郷に生まれ、観応の擾乱の後、尊氏から祖父の治めていた丸木郷(現・名草)を拝領し、故郷に因み名草と改名しました。現在、南氏の居館跡が金蔵院となっています。

〇「前武州太守道常大禅定門観應ニ辛卯年二月廿六日」(高師直の法名1351年)前列南から5基目

高一族は代々足利氏の執事を務める家柄で、鎌倉時代より足利荘内に広く領地を有していました。高師直は足利尊氏の鎌倉幕府打倒の戦い「元弘の変」以降、常に尊氏に近侍し戦っています。

銘文を確認できる供養塔だけを見れば高一族が多くを占め、室町時代初期の「樺崎寺の外護者」が南氏を含む高一族で有る事が伺えます。光得寺過去帳に足利直義の名が確認できない事と同様に(現時点で)五輪塔にもその名は確認できません。南宗継以降の新しい記銘が見当たらないこの状況は、直義方の筆頭であった上杉氏が薩埵山体制崩壊後復権し台頭する過程で、樺崎寺が衰退し放棄されていった象徴であると言えそうです。