義兼の前半生
吾妻鏡における義兼の記録
和暦 | 西暦 | 月日 | 出来事 |
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治承四年 | 1180年 | 12月12日 | 頼朝の新邸入御の列に北条父子に続いて並ぶ |
治承五年 | 1181年 | 2月1日 | 義兼、北条殿の息女を娶る。 |
11月5日 | 義兼・義経・土井實平・土屋宗遠・和田義盛等、遠江国へ向かわんとする | ||
養和二年 | 1182年 | 1月3日 | 頼朝御行初め。義兼・北条殿・畠山重忠・三浦義澄・和田義盛が列に続く |
4月5日 | 江ノ島に向かう頼朝に同行する列にあり。 | ||
寿永三年 | 1184年 | 2月7日 | (一之谷の合戦)蒲の冠者(範頼)並びに足利・秩父・三浦・鎌倉の輩等競い来たる。 ※ 本文中に足利の名が確認できるが、藤姓足利氏の連枝の者と思われ、義兼とは無関係。念のため記す。 |
5月1日 | 義兼、甲斐の国に発向(木曽義高残党の追討の為) | ||
8月6日 | 平家追討に再度出陣するに際し頼朝は酒宴を催し、範頼、武田義信、足利義兼らに餞別として馬を下賜する。 | ||
8月8日 | 義兼、範頼旗下として平家追討に出陣する。 ※阿曽沼広綱の名が記される。 | ||
元暦二年 | 1185年 | 1月26日 | 義兼、義範と共に軍を進め九州・豊後国に渡る。 ※阿曽沼広綱が浅沼広綱と記される。 |
6月7日 | 鎌倉・頼朝の御前に平宗盛が引き出される。義兼も列席。 | ||
8月29日 | 義兼、上総介に任官す。 | ||
10月24日 | 義兼、勝長寿院における供養に参列。 足利の七郎太郎の名を認るが、阿曽沼(浅沼)広綱の兄・佐野基綱と考えられる。 | ||
文治三年 | 1187年 | 12月16日 | 義兼の北の方(時子)の急病に際し政子が見舞う。 この時期、義兼も時子も鎌倉に滞在していた事がわかる。 |
文治四年 | 1188年 | 1月6日 | 義兼、頼朝に椀飯を献ず |
3月15日 | 鶴岡宮において大法会を遂行。義兼参列す | ||
※この年義兼は鎌倉屋敷近くに稲荷山極楽寺(後の浄妙寺)を創建しています。 | |||
文治五年 | 1189年 | 7月19日 | 義兼、奥州征伐に出陣す ※この戦いに際し戦勝祈祷の為「理真上人に樺崎郷を寄進」と鑁阿寺縁起(古縁起)に記される。この祈願所が後に下御堂(號法界寺)となる。 |
9月18日 | 泰衡一方の後身熊野別当、上総の介義兼これを召し進すとある | ||
※ この年足利義氏誕生。義兼は理真上人の安産祈願への感謝として樺崎の大窪郷を寄付しており、老後は山麓に草庵を結び閑居したと鑁阿寺縁起(古縁起)に記される。理真上人閑居の址は宗源寺となる。 | |||
文治六年 | 1190年 | 1月13日 | 上総介義兼、大河兼任の乱の鎮定に発向す |
2月11日 | 「関東御管領九ヶ国内である上総国は義兼を国司として補任していたが、去年辞退の間、平親長を任じ今日目代等国務す」とあり、続く記載でも義兼を上総の前司としているが、その後建久二年1月以降では再び上総介義兼の名が記される。再任の記録は確認できないがこの時期以降も上総介と記される場合は義兼の記録と見られる。 | ||
2月12日 | 大河兼任一万騎を打ち破り乱を鎮定する ※義兼最後の戦働き | ||
建久二年 | 1191年 | 1月28日 | 幕下二所御精進の為、由比浦に出御す。上総介義兼従う。 |
2月4日 | 前の右大将家二所御参りの列中に上総守とある。上総介の誤記か? | ||
7月28日 | 寝殿・対屋・御厩等造畢の間、今日御移徙の儀なり。上総介他供奉す。 | ||
8月1日 | 大庭の平太景能新造の御亭に於いて盃酒を献る。その儀強ち美を極めず。五色の鱸魚等を以て肴物と為す。足利上総介陪席す | ||
8月6日 | 御移徙の後、御行初めの儀有り。上総介以下供奉人済々焉たり。 | ||
8月18日 | 御厩に立てらる。一疋(鴾毛)上総介進す | ||
建久三年 | 1192年 | 8月15日 | 上総介義兼奉幣の御使いとして廻廊に着しとある |
11月25日 | 永福寺の供養に上総介義兼供奉す | ||
12月5日 | 濱の御所に召し聚めらる。上総介の名もあり | ||
建久四年 | 1193年 | 1月1日 | 上総介義兼座を起ち参進して御簾を上ぐ。 |
5月16日 | 富士野の御狩り。上総介、江間殿(北条義時)参候す | ||
5月29日 | 前夜「曾我兄弟の仇討ち」と呼ばれる事件が発生する。首謀者のひとり曽我の五郎(時致)が召し出される。上総介も候ず。 | ||
9月11日 | 江間殿嫡男の童形この間江間に在り。昨日参着す。上総介・伊豆守以下数輩列候す | ||
鑁阿寺縁起(古縁起)より「下御堂(號法界寺)...三尺皆金色金剛界大日如来像...奉安置寶形御厨子...これが真如苑像と呼ばれる伝・運慶像です | |||
建久五年 | 1194年 | 1月1日 | 鶴岡八幡宮に御参り。上総介義兼は御征箭 |
2月1日 | 江間殿の嫡男元服す。上総介義兼列す。 | ||
8月1日 | 将軍家相模の国日向山に参り給う。上総介義兼列す。 | ||
閏8月1日 | 将軍家三浦に渡御す。上総介義兼参ず | ||
10月18日 | 上総介義兼御使いとして日向薬師堂に参る | ||
11月13日 | 上総介義兼、鶴岡八幡宮に於いて両界曼陀羅二鋪を供養す | ||
11月14日 | 上総介義兼、昨日供養する所の曼陀羅は、将軍家の御祈祷なりてえり。 | ||
12月26日 | 永福寺内新造の薬師堂供養、上総介義兼供奉す | ||
建久六年 | 1195年 | 1月1日 | 上総前司義兼椀飯を献ず。 |
1月13日 | 将軍家鶴岡八幡宮に御参り。上総前司以下供奉す | ||
3月9日 | 将軍家石清水並びに左女牛若宮等に御参り。上総介義兼等後騎たり。 | ||
3月10日 | 将軍家東大寺供養。将軍(御車)上総介(相並ぶ) ※随兵に阿曽沼小次郎、佐貫四郎、足利五郎、佐野太郎 等の名前 | ||
5月20日 | 天王寺に参り給う。上総介義兼供奉す |
建久六年(1195年)以降の義兼
鑁阿上人足利義兼
鑁(バン:Van) | 阿(ア:a) |
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源姓足利氏誕生の地「樺崎郷」
足利では一般に市内の八幡町にある八幡宮近郊が「源姓足利氏誕生の地」と考えられています。これは義兼の祖父にあたる源義国(並びに曽祖父義家)と八幡町の下野国一社八幡宮が深い縁で結ばれており、そもそも足利荘立券が義国の功績で有り足利式部大夫と呼ばれていた事も根拠として挙げられ全く異論の余地は有りません。
他方足利氏を武家として成立させたのは紛れもなく足利義兼であり、”足利”と云う名を公においても名乗るようになったのも義兼がはじめと伝わります。事実上の足利氏の初代は義兼である事にも反論の余地は無いでしょう。そうなると鑁阿寺古縁起において「樺崎者」とされた義兼が前半生を過ごした足利荘(菅田・樺崎)こそが真の「源姓足利氏誕生の地」であるとも言えます。
しかし現時点で足利(菅田・樺崎)荘内に義兼の屋敷地と断定できる痕跡は発見されていません。そこで大正時代に鑁阿寺住職により記された「足利庄鑁阿寺」内にある「菅田稲荷山に在った足利氏初代・義康の遺跡が鑁阿寺に移された」との記述と、同所の「菅東山稲荷神社が義兼が義兼創建であると」の伝承を元に、その稲荷社と足利荘公文所(現鑁阿寺)内の稲荷社との間の関係性について別項にて検証を試みてみました。そしてその深い関係性から「光得寺縁起編纂委員会」としては光得寺こそが晩年の足利義兼屋敷地では無いかと考えました。
余談ではありますが、八幡神を信仰し多くの八幡宮を建立してきた源氏一族である義兼が、なぜ稲荷社にこだわったのでしょうか。義兼が鎌倉に創建した極楽寺(のちに浄明寺→浄妙寺)は鎌倉の名前の由来となったとされる「鎌足稲荷」の近くに創建され、その山号は稲荷山(とうかさん)と號していました。義兼の稲荷社に対する思いが何処に在ったのかは定かでは有りませんが、それは「鎌足稲荷社」に祀られる藤原(中臣)鎌足と天智天皇の関係に自らと頼朝の関係を投射した物であったのかも知れません。