足利氏の本貫地(樺崎と足利荘)

義国が安寿楽院に寄進した足利荘

源姓足利氏の本貫地は古に足利荘と呼ばれた地域です。源義国が父・義家から伝領した足利の開発地を安寿楽院に寄進し荘園として成立させます。その耕地面積は安寿楽院(後に八条院に相続)の史料によれば200町という広さでした。現代の単位で約200ha、目安としては1km×2km程度の面積という事になります。足利郡全域の耕地に該当するとは到底考えられません。これまで足利荘は古代の足利郡全域及び安蘇郡の赤見郷と伝えられて来ました。しかし足利郡には安寿楽院領の他、平家領、国衙領、伊勢神宮領(ほとんどは梁田郡内)が混在していた事が様々な研究で明らかです。足利荘が足利郡全域と云う考え方は間違えです。

しかし足利荘の荘域が足利郡内のどこに存在したかを記す史料を確認できていません。傍証として新田宝城応永記には晩年の源義国謹慎先として「樺崎」の名があり、また鑁阿寺古縁起にも義兼を「樺崎ノ者」と書き出している点から、足利荘に樺崎地域が含まれたことは確実と考えられます。そこで国土地理院地図のツールを用いて樺崎を中心として200ha相当の領域を計測してみました。以下の図がその結果です。

赤く塗られている箇所が200ha(2k㎡)程度の面積範囲になります。樺崎が源義家の代に長氏(樺崎を開拓したと伝わる長一族)から寄進された事は下野神社沿革誌にも記されており、また理真上人への寄進や樺崎寺の創建などの客観的な事実から、足利荘の荘域に樺崎に含まれていた事は確かであろうと考えられます。なお足利荘の寄進地の中に「赤見郷(現佐野市)」の名が確認できるとされますが元資料を確認できていません。「光得寺縁起編纂委員会」の考えとして、赤見郷を荘域に含める事は自然境界および郡域を超える事から蓋然性が低いと判断し、逆に西の境界を名草川とする方が妥当であるという判断で計測範囲を策定しています。

これまで義国を祖とする足利氏は、現在の「鑁阿寺」の場所に居館を構え、足利荘園もまたその居館を中心として在るものと考えられて来ました。しかし同じ地域内にある善徳寺(※1)境内に平重盛供養塔が残る事から、義兼の青年期(平家政権の時代)には、現在の「鑁阿寺」周辺地域は平家方の藤姓足利氏の所領であったと考えるべきです。

※1:善徳寺は現在足利市観光駐車場北にあります足利尊氏開基の臨済宗妙心寺派のお寺です。元は現在の岩井山北の勧農地区に有りましたが室町時代中期に現在の場所に移転したと伝わります。平重盛供養塔が善徳寺の移転前から現在の場所に在ったのか、移転と共に移されたかは定かでは有りませんが、1km程度の範囲です。

藤姓足利氏

本姓・藤原を名乗る足利氏の一族が居ました。承平天慶の乱において将門を討った藤原秀郷の末裔となる氏族であり、足利地域を開発し治めていました。義兼の時代には数千町と云う義兼に数倍する所領を有した北関東の大勢力であり、以仁王の挙兵の後「宇治平等院の戦い」で平家方として義兼の兄である義清ら源氏勢を打ち破る活躍した事が源平盛衰記に記されています。

吾妻鏡・治承四年九月三十日の条に「足利太郎俊綱平家の方人として、同国府中の民居を焼き払う。これ源家に属(つ)く輩居住せしむが故なり。」とあります。足利太郎俊綱とは藤姓足利氏の当主であり、時期は「宇治平等院の戦い」の後京から戻った頃です。周辺の源氏一門に刃を向け始めた事が記されています。頼朝の下に向かった足利義兼、山名義則はこうした脅威に直面していました。(所領を追われた可能性もあります。)

その後、藤姓足利氏は頼朝により滅ぼされますが、その時期については吾妻鏡の記述が混乱しており、養和元年(1181年)閏2月という説と寿永二年(1183年)2月とする説があります。

源氏と藤姓足利氏の関係

一般的には「源義国と藤姓足利氏が協力して足利荘を立券し、藤姓足利氏が荘官として足利荘を治めていた」とする説が有力ですが、先の説明の通り「長一族から義家への寄進地」が足利荘であったならば、そこに藤姓足利氏を荘官に任じる必要は有りません。荘官は長一族が務めたのでしょう。また足利荘立券以後の両者の関係を見れば藤姓足利氏が源氏の被官であったとは考えられず、両者は対等な競合氏族でした。義国は足利荘立券の翌年「梁田御厨荘」を立券を強行し藤姓足利氏との間に緊張状態が生れます。この問題は後の平氏政権下で平重盛により源氏の領主権が確定するまで続きました。そして平家物語に有名な「橘合戦」に藤姓足利氏俊綱・忠綱父子の名がある事から既に京において行動していた事が伺えます。藤姓足利氏は上野国南部から足利に至る地域で国衙領の下司職や平家方の荘園の荘官に任じられ活動していたと考えられています。

このような両者の関係を考えれば、義国の本当の狙いは「梁田御厨立券」であり、足利荘立券は藤姓足利氏の出方を伺う試金石でしか無かったのかも知れません。

高階氏(後の高一族)

足利氏にとって重要な一族として「高階氏(後の高一族)」の名が挙げられます。高階氏は義家の従兄で乳兄弟であった惟章が、義家の四男(一説には惟章の娘と義家の間の子)を養子とし高階惟頼を名乗らせ家督を継がせます。惟頼は義国とほぼ同世代の異母兄弟でした。惟頼に関する詳細は不明ですが、その子孫は足利氏の執事となる高一族である事から惟頼以降の歴代は義国-義康-義清/義兼と続く源氏と深く関わり合っていたと考えられています。

惟頼の子・惟眞は尊卑分脈に「爲夜討足利被討」(訳:夜討して足利に討たれた)とあります。惟眞は足利義康より年長でしょうが同世代の人物と思われます。惟眞が夜討した「足利」とは藤姓足利氏であり紛争原因は梁田御厨の立券に在ったと考えられます。そうした背景からも梁田御厨荘の荘官は高階氏が務めていたと考えられます。

惟眞の子・惟範は尊卑分脈によれば父が討たれた時三歳であり、十三歳になるまで祖父・惟頼の元に在ったとされます。出典は定かでは有りませんが、惟範の子供の内、嫡男・惟長と惟信は足利義兼の兄・義清、義長に従い水島の合戦で命を落としたと伝わります。梁田御厨荘の荘官である高階氏は義清の被官でもあり従軍するに矛盾は有りません。年齢的にも義兼の両兄に近かったと思われます。ところが尊卑分脈では惟長が「爲足利庄依義兼申遣自右大将爲御史奥州忍郡給之」と、義兼からの口添えで頼朝から奥州忍郡を給わったことが記され、水島の合戦における落命と矛盾を来しています。主を失った梁田御厨が義兼の支配する所と成り、梁田御厨在地の高階氏の眷族が義兼旗下に加わる事は推測できますが、どのような事情で惟長が頼朝から行賞を受けたのかは不明です。

その後惟長の子・惟重についての動向は確認できませんが、惟長の孫に当たる重氏の代には”高”姓を名乗り多くの文書にその名を記し、足利家の執事として活躍していた事が確認されています。

光得寺縁起編纂委員会

樺崎八幡宮と光得寺

樺崎八幡宮は樺崎在地の土豪・長氏(長一族)から源義家が土地の寄進を受け樺崎八幡宮を創建した事が始まりです。長氏の名は1800年頃作成された「鹿沼聞書・下野神名帳」、嘉永三年(1850年)刊行の「下野国誌」、明治三十五年(1902年)刊行の『下野神社沿革誌』内に「長丹波」の名で見い出され、それが樺崎八幡宮歴代神主の世襲名で有る事が分かります。

長一族と光得寺の関りは深く、現在寺のご本尊様として祀られている「阿弥陀如来立像」の厨子には「寛政十二庚申八月吉日納之施主當所住長丹波」の朱書銘で「長丹波」の名が記されています。光得寺のご本尊の厨子は「樺崎八幡宮神主」により奉納されていました。

ここに示した光得寺の過去帳には寺に祀られる「足利家」一門の名が記されています。その記載された名の中に樺崎寺から移された光得寺五輪塔の記銘同様に高一族の名も含まれており、恐らく光得寺過去帳の「足利家」の記載と樺崎寺で記されていた過去帳の「足利家」の記載は共通していたと考えられます。そこから次の事を推測しました。

● 記銘の判読できない五輪塔の被供養者はこの過去帳の「足利家」の内の人物である。

● 過去帳の「足利家」の箇所が共通する光得寺と樺崎寺は元は一体の寺で在った。

そうした観点で更に過去帳を紐解くと、足利家一門歴代に続き「長(家)元祖」と記された所に長義季の法名「元樹院殿光應長念義法大居士」と没年月日「元久元年子三月十二日」が記される事は、その人物の重要性を物語ります。長義季は三浦義明という源頼朝にとって重要な人物の五男であり、義兼と頼朝を引き合わせた人物として浮かびます。義兼が長一族が治める菅田・樺崎に隠棲した後も傍に有ったと考えられ、その名が「足利家」に続く筆頭に記される事は、「足利家」にとって非常に重要な人物であった事が印象付けられます。

足利尊氏の時代

掲載は控えますが過去帳のその後のページに足利氏門葉である「仁木氏」の一族の名前が確認できます。仁木氏は足利氏門葉であると共に樺崎寺十一世住持/別当仁木頼仲の一族でも在ります。頼仲ははじめ鎌倉の鶴岡八幡宮別当に補任され、その後足利尊氏により樺崎寺・鑁阿寺の別当に補任されます。この時代に多くの仁木一門が足利に移り住んだのでしょう。仁木頼仲以降、鶴岡八幡宮別当が両寺の別当を兼ねる事が慣例と成りました。頼仲の甥にあたる仁木頼章は尊氏の晩年後述する南宗継と共に執事を務めています。

南氏は南宗継が尊氏から菅田の北に位置する丸木郷を拝領し和歌山の名草郷から移り住みました。そして丸木郷を「名草」と改めたと伝わります。この地は宗継にとっては父祖の領した地ということですから高一族の所領であったと思われます。過去帳には足利家として南宗継の名と共に「清源寺殿月海圓公大居士」と云う法名が記されます。その法名が光得寺五輪塔(樺崎寺の足利氏歴代供養塔)にも確認されています。

南宗継が名草(丸木郷)を拝領する頃の時代背景は、室町幕府を開いた足利尊氏が弟・足利直義と対立し「観応の擾乱」が引き起こされます。戦いは複雑な経緯を辿りますが総じて「尊氏派(高一族) 対 直義派(上杉一族)」の対立であり、高一族は高師直をはじめとする主要な者を亡くしてしまいますが、戦そのものは直義の死により尊氏派の勝利となります。これにより薩埵山体制と呼ばれる尊氏派主導の政治体制が確立しました。こうした時代に南氏が移り住み、有力外護者として樺崎寺を守り、仁木頼仲が別当と成り、「観応の擾乱」で命を落とした高師直を足利家の一人として供養したのだと思います。(高師直は俗名記されず法名にて「前武州太守道常大禅定門」と記されます。五輪塔塔にもその名を確認できます。)更に下関を樺崎寺に寄進していた足利直義の名が過去帳にも五輪塔にも確認できないという、まさに「観応の擾乱」を戦い抜いた「尊氏派」の寺という状況にありました。

足利尊氏の死後

ところが尊氏の死後状況は一変します。仁木氏の宗家は政争に敗れ没落し、謹慎していた上杉憲顕も復権を果たし薩埵山体制を崩壊させます。上杉憲顕の時代に鎌倉公方の直轄領も上杉氏が守護する事と成りました。足利は鎌倉公方と幕府との間で複雑なやり取りが有りましたが何れにしても上杉氏が影響力を行使していました。光得寺の過去帳を見る限りこの年代以降高一族の名は確認できません。更に永享の乱を引き起こし敵対した上杉憲実に自害に追い込まれた四代鎌倉公方「足利持氏」、その後鎌倉御所を古河に遷座させ初代古河公方を名乗り享徳の乱を引き起こした「足利成氏」に至っては院殿号と俗名を記すのみです。そこに薩埵山体制の崩壊=上杉氏台頭の影で樺崎寺が衰退する様子が伺えます。光得寺の過去帳にはそうした歴史の変遷までもが刻まれています。

廃仏毀釈に際して

明治初年の廃仏毀釈に際して樺崎寺に安置されていた足利氏歴代供養塔(五輪塔)を光得寺に運ぶ労を担った人が「仁木」姓を持つ人達だったと寺に伝えられています。すでに足利氏の霊廟・氏寺としての役目は鑁阿寺が背負うようになっていましたが、菅田・樺崎に生きて人生を重ねてきた一族にとっては光得寺の由緒に自らのルーツを委ねたいと考えたのでは無いでしょうか。

菅東山稲荷神社と鑁阿寺の稲荷社

鑁阿寺境内、大御堂の北東には稲荷社が祀られております。義兼が鎌倉の屋敷から分祀したと「足利荘鑁阿寺」に記されています。そしてここから仰角39°で北東方向に3.65km進んだ位置にも義兼創建と伝わる菅東山稲荷神社があります。この二社の関係を地図で見ると次のようになります。ご覧の通り鑁阿寺と菅東山稲荷神を結ぶ直線(仮称:稲荷線)の延長上には理真上人閑居の地と目される宗源寺跡へと繋がります。しかしこの直線には更に異なる情報が隠されています。

※ 菅田山光得(徳)寺の名を確認した「鑁阿寺別縁起」の付記には「樺崎村大窪家(宗)源寺、理真上人閑居地也」との一文があります。原文は「宗源寺」では無く「家源寺」と記されているのですが、その意味する所は「源衆(宗)の寺」であるか、「源家の寺」であるかの違いであり意味は同じと考えます。そもそも「樺崎村大窪」に理真上人が閑居した事は概ね間違えの無いところであり、そこに宗源寺が建てられていた事は廃寺記録に残されています。従って「宗源寺跡」は「理真上人閑居地」であったと考えます。

光得寺縁起編纂委員会

上に記した「鑁阿寺と菅東(山)稲荷(神社)関係図」の鑁阿寺境内部分を拡大した図が「鑁阿寺境内拡大図」です。まずは大御堂内でご本尊を祀る須弥壇の位置を起点として稲荷線を引き始めると稲荷線が鑁阿寺内に祀られる稲荷社社殿の上を通過する事が確認できます。

※ 図中に赤点線で示す部分は、鑁阿寺北側の路地の延長線を示しています。一見中途半端に見えるこの北側路地の接続する位置に稲荷線が伸びいます。仮説として義兼が居住していた当時はこの赤点線が東辺の土塁位置で有ったのでは無いかと考えています。

菅東山稲荷神社の位置を拡大すると、鑁阿寺大御堂から引き始めた稲荷線が菅東山稲荷神社の社殿の上を通過しています。見れば菅東山稲荷神社の社殿もまた鑁阿寺の方を向いているのが分かります。そしてこの線は先にも述べた通り最後には「宗源寺跡」へとたどり着きます。

この「鑁阿寺の稲荷社」-「菅東山稲荷神社」-「宗源寺跡」の座標関係は偶然と言えばそれまでです。しかし義兼の足利屋敷内の稲荷社と菅東山稲荷神社の関係に義兼の意思が確認できれば、菅東山稲荷神社近傍に義兼の隠居屋敷があった可能性が高くなると考えています。「光得寺縁起編纂委員会」は、光得寺が義兼晩年の隠居屋敷であり、そこで拝んでいた大日如来坐像が今光得寺に伝えらたと考えています。

37分割の等距離線の先

余談になりますが図は今回検証した「稲荷線」の起点から鑁阿寺外郭までの長さ(約101m)を基準として、そこから37本の等距離線を引いた図です。

37本という数は「金剛界三十七尊」に通じ、大日如来坐像の厨子のにも祀られている仏様の数です。また鑁阿寺縁起において鑁阿寺から樺崎寺までの間に三十七本の塔婆を建てたという伝承にも通じます。「光得寺縁起編纂委員会」は、この三十七本の塔婆こそ菅東山稲荷神社の建設位置を定めんが為方位測定に用いた補助具であると考えました。方角を論拠とする以上計測方法について補足しました。なお37本目の等距離線は菅東山稲荷神社社殿前に引かれます。