臨済宗妙心寺派
光得寺は正法山妙心寺を大本山とする臨済宗の一派臨済宗妙心寺派の寺として檀信徒に仏の教えを説き、多くの御霊の供養を行っております。臨済宗は初祖・菩提達磨(達磨大師)に始まる禅宗の法系を嗣ぐ臨済義玄(慧照禅師)により始められ、明菴栄西が建久2年(1191年)に宋において臨済宗黄龍派の嗣法の印可を受け日本に伝えたものです。明菴栄西は博多に日本最初の禪道場となる聖福寺を創建し後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜ります。やがて建久九年(1198年)に鎌倉に下り、正治二年(1200年)に頼朝一周忌の導師を務め、妻・政子の創建した寿福寺住職に迎えられ、建仁二年(1202年)には二代将軍・源頼家の外護により京都に建仁寺を建立しています。こうして臨済宗は幕府ならびに朝廷からの庇護を受けることになり発展の礎を築くことになりました。妙心寺はその後暦応五年に花園天皇が自らの離宮(現在の京都市右京区花園)を寄進し、関山慧玄(無相大師)を開山とし創建しています。
光得寺が臨済宗の寺院となるのは江戸時代の元禄から享保までの時代と考えられますが、創建は更に古く鎌倉時代初期に遡ります。
樺崎寺々院群の一山『光得寺』
西暦2020年に開創八百年を迎えた光得寺は承久二年(1220年)に足利氏三代目義氏公により「足利氏の霊廟・樺崎寺」の一院として創建されました。開山である足利義兼公は源氏の一門であり、初代・足利義康公から受け継いだ足利荘(菅田・樺崎)に暮らした足利源氏「はじまりの人」でした。
義兼公は源頼朝公の旗揚げに際し早くからその帷幄にあり西は九州、北は奥州平泉までを駆け回り、従四位下上総介に昇りました。また嫡男・義氏公もまた鎌倉幕府を盛り立て正四位下陸奥守となり三河国に所領を経営する事になります。この三河国の所領が足利氏九代目尊氏の天下取りの戦いで大きな意味を持つことになりました。
義氏公は足利を愛した義兼公の意思を継ぎ、足利氏発祥の地である菅田・樺崎に義兼の霊廟「赤御堂」を中心とした伽藍を整備し、足利氏の心の拠り所となる樺崎寺々院群を創建しました。光得寺は樺崎寺々院群のひとつとして創建されたと考えられています。
その後幾多の戦乱の中、樺崎寺々院群は衰退を余儀なくされましたが光得寺は多くの檀家衆により守り継がれ現在に伝えられます。残念ながらお寺に伝わる多くの記録が明治元年の火災により失われてしまいましたが、寺に眠る多くの先人の尽力により幾つかの「寶」と縁起となる伝承を残す事が出来ました。そうした寺の縁起をこれからの人達に伝えて行く事こそ、現世(いま)の私達にとって大切な役割であると信じています。
開山・開基のお二人は生前に出家し「仏の弟子としての名前」法名を頂いておりますが、ここでは二人が「人」としてどのように生き、足利に尽くしたかを伝えたいと考え、敢えて俗名によりお話をさせていただきます。
※ 以下の項目については従来と異なる見解が述べられております。それらは史料を元に国土地理院地図等で提供されるソフトウェア・ツールを使用して検証を行った結果および、吾妻鏡、鑁阿寺諸縁起、および鑁阿寺の古記録などを参照し検証した「光得寺縁起編纂委員会」の見解です。光得寺に伝承された縁起ではない点はご了承ください。
● 足利荘の所在地
● 若き日の足利義兼の居住地
● 足利義兼が源頼朝の下に向かった背景
● 樺崎と鑁阿寺の関係
● 大日如来坐像の来歴